読書メモ

磯田三津子(2010)『音楽教育と多文化主義―アメリカ合衆国における多文化音楽教育の成立』三学出版.

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私にとっての音楽教育のイメージの幅を広げてくれた本でした。過去に読んだことがあるのですが、今回再読。
西洋クラシック音楽が中心だったアメリカ音楽教育が、公民権運動以後の多文化主義や多文化教育を求める潮流や声の中で、アフリカ系をはじめ、様々な文化的背景を持つ音楽を重視していくようになるプロセスが描かれています。

読んで一番印象に残るのは、最初の導入期において、音楽教育学会の運営側にマイノリティの背景の人がいない・少ないことが大きく問題視され、改革が行われていく点でした。これは、提案や改善の内容だけの問題(もちろん、課題もあったわけですが)ではなく、誰がその意思決定をするのか、という点が重視されていることを物語っており、企画立案、運営を誰がやるかという制度や体制の問題の大きさを感じる話でした。

また、実際の音楽関係者を学校と繋げる、という点も重視されています。キャンベルのいう「ワールド・ミュージック音楽教育」と「マルチ・エスニック音楽教育」の二分類(pp.88-89.)でいう「マルチ・エスニック音楽教育」と関連するかもしれませんが、ゲストを連れて来る、という点が重視されている点が、学校教育の内容を活性化する意味でも、学習者にとっての異文化理解を促したり、自分たちの文化の価値を再確認する意味でも、重要な意味合いを含んでいるように感じました。

また、1970年代以降に提案される授業例も非常に多彩です。例えば、音楽以外の他の教科や行事などと関連付けて構想されている、総合学習カリキュラムのような提案であったり、社会科と関連付けるなどして、平等社会のあり方を検討する「社会変革アプローチ」(p.107.)なども見られます。

また、民族音楽学者のブラッキングの主張が象徴的でしたが、移民の音楽の特異性を強調することが、偏見を助長するとして、様々な国の文化を受け入れながら国家の伝統を発展させてきた側面に着目する必要がある(p.135.)という話もありました。確かにその方が現実的・実践的な場合もあるようには思いますが、多文化的な音楽を用いた授業や単元構成の目的設定によって、授業のやり方が大きく変わってきそうです。(例えば、「国家を発展させてきた側面」を強調すると、差別・排除・権力関係を見えにくくする意味合いもあるとは思いました。)

読後に二つ思ったことがありました。
一つは、1990年頃の多文化教育批判などが起こる中で、音楽教育において「文化」がどのように捉えられていったのか、という点です。175頁でもスミスの論の中で、「アフリカ系アメリカ人として、民族や人種のラベルをつけて理解しようとすることに対する疑義」(p.175.)が出てきますが、民族や階級への強調を弱めた先にある多文化音楽教育が想定する「文化」の形がどうなっていくのか。この点は本書には出てきませんが気になりました。
もう一点は、これらの教育が普及した地域的な分布などについてです。全米的な音楽教材に一定の影響を与えたことは理解できたのですが、当初の教材が、マイノリティの学習者にとっての音楽教育改革を志向していたところもあり、実際どこで普及したのかという点に興味がわきました。逆に言えば、中流的な白人生徒が多い学校で、こういった改革動向はどう受け入れられたのか。この点は、マジョリティにとっての多文化教育の意味を問う意味でも、興味がわきました。

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