
個人的にはとても良い本でした。
探究の形式化や良い成果へと仕上げることを重視することへの懸念を各所で指摘しつつ、探究の多様性や違った見方を許容する方向へと促すような本として私は読みました。
以下の文章が印象的です。
ある生徒が「猫を保護したい」という思いをもって探究に取り組みました。ところが指導の過程で、それが「動物愛護の意義について」というテーマに書き換えられていきます。 「猫を保護したい」だけでは探究課題として抽象的すぎるという指摘は正しいですが、正 しい指導が重なるほど、生徒の心の熱が冷めていくこともあります。そして、発表はできるのに、「自分の探究」ではなくなっていく。探究の出発点は、きれいな問いではなく、むしろ疑問や違和感です。それは「このままでは終われない」という引っかかりで、次に 進むためのエンジンになります。問いは少しずつ形になっていくのに、私たちはいつのまにか、はじめから問いをきれいにまとめることを目的にしてしまうことがあります。生徒の問いが不十分に感じるとき、教師は不安になります。その不安が、「せめて問いをきちんとしないと」という思いを生み、探究を別の方向にしてしまうことがあるのです。(pp.23-24.)
こういう意味で、
「大切なのは職員室で「あの子、発表は拙かったけど、問いが変わったよね」と言い合える文化をつくれるかどうかです。」(p.32.)
「探究の価値は、結論に到達することではなく、調査や経験を通して問いが変化し、広がり、更新されていくプロセスそのものにあります。」(p.51.)
「成果を「社会に役立つか」で判断すると、生徒は自分の経験や関心よりも、社会課題らしいテーマを選びがちになります。すると問いは自分から離れ、探究は他者の期待に合わせた形式的な学びになってしまいます。」(p.55.)
「F先生も未完成の探究こそ本来の姿だと実感します」(p.69.)
このいずれの話も論旨は一貫しており、事例も豊富で大変読みやすかったです。
同時に、教師の専門性に関しては、
探究における教師の本質的な役割は、方向付けでも放任でもありません。生徒の問いがどう動こうとしているかを見取ることです。生徒の迷いに寄り添い、必要なときに問い返し、知識の種を渡す関わりこそが、探究における伴走の質であり、教師の専門性なのです。(p.103.)
「生徒の漏らす小さな気づきを拾うこと。それが一番の専門性なのかもしれませんね」(p.113.)
という話や、「知っていても、言わない。知らなくても、関わる。」(p.108.)や、
「探究における多様な関わり方を認め合う」(pp.140-141.)の話など、教師の立ち位置についても多く論じられています。
個人的に関心のある、教科と総合の関係性についてもとても刺激を受けました。
悩ましいなあと思うのは、形式化の発想と「守破離」の発想との距離感や関わりについてです。確かに形式化は良くないのですが、ある程度の形式が無いと最初は自立歩行できないように思える場面も、経験上あることもあります。ある程度のモデルの価値を認めつつ、それにとらわれすぎない塩梅をどうするか、という点が悩ましいなと思いました。おそらくその塩梅のヒントは、一回きりの探究活動や成果発表で捉えるのではなく、長期的・段階的に探究をしていくプロセス(徐々に慣れていくからこそ違和感もある、うまくいかないこともある、だから次がある、など)をみていくことなのだろうかと私なりに咀嚼して捉えていました。いずれにせよ、発表会などの成果発表の場を切り札にして生徒を過度に追い込まないようにする「余白」の大切さを感じました。
また、形式化を防ぐうえでは、生徒の状況によって立ち止まったり、場合によっては前の段階に戻っていくような「余白」を許容することになると思うのですが、そういった場合にはやはり柔軟な対応が必要になってくるのだろうなあと思いました。全体で話し合うような共同的な場も大事にしつつ、後戻りできるような余白を残す指導のあり方を改めて考えるきっかけとなりました。