
法律学者・元裁判官の著者が、日本人の法意識を論じた本です。本書を書くに至った理由として、「日本固有の法意識、日本人の法意識こそ、私たち日本人を悩ませる種々の法的な問題を引き起こす元凶の一つにほかならないと考えるからだ。」(p.4.)と述べられています。
とりわけ、印象に残るのは、日本人の法意識において、応報刑的な発想が強く、基本的に疑われた側を犯罪をしたと捉え、処罰の対象とすべき、という考えが強いということでした。
そういう発想は、例えば、「法益保護主義徹底の観点から、「犯罪化や厳罰化は慎重に」というのが、人権や個の尊厳の尊重、プライヴァシーの尊重等にかなった方向性であり、たとえばヨーロッパ諸国は、もちろんゆらぎはあるものの、基本的にはこの方向を採っている」(p.101.)の方向とは異なっているとして整理されています。同時に、統治と支配の容易さを重視するような厳罰化政策に対して、懸念を示しています。
以下のように、日本人の法意識を要約的に論じている箇所があり、わかりやすいです。
(誤解無いように述べておくと、以下の引用は著者が日本人の法意識の特徴を説明した内容です。著者自身の考え方を論じた箇所ではないです。)
「法律(刑罰法規、広義の刑法)を破ればそれはすなわち犯罪(悪いこと)であって処罰されるべきだ。国家が設定する犯罪の枠組みは、基本的に正しく、疑う余地のあまりないものだ。インターネットに心ないことを書き込むのはよくないから、侮辱罪の厳罰化、拘禁刑の導入もやむをえない。ほかの人を直接傷付けないことでも自分を害する可能性があれば犯罪としてよく、とりわけドラッグ摂取のような『反社会的』な行為についてはそういえる。悪いことをした人が刑務所に入るのだから、そこにおける処遇が受刑者の自由を強く制限 する方法で行われていても、また、社会復帰に必ずしも役立っていなくても、やむをえない。そういう人々は、まずは『秩序』を叩き込まれるべきだ。殺人は、犯罪の中でも特に悪いことなのだから、死刑もやむをえない」(p.134.)
そして、このような発想について、「犯罪は一種のケガレであり、犯罪の疑いをかけられることすらケガレである。火のないところに煙は立たない」。日本人の犯罪と刑罰に関する法意識のうち無意識に近い部分には、そうした感じ方さえうかがわれる場合がある。」(p.135.)とも述べています。
こういった発想は当然「推定無罪」の原則とも現実としてズレがちであったり、裁判の仕組みとも関連づけて論じられていました。
その他、「日本では、『権利』という言葉には、どこか、『ほしいままな自己主張』がつきまっている」(p.166.)とし、「日本人の権利認識の浅さ」を指摘しています。その際に、権利主張の背景にある「いつか同じ立場に立つあらゆる人びとのため、また『公共的正義』のためという厳しい自覚、認識が抜け落ちがち」(p.167.)とも述べられていました。
法教育との関係でも気になる論点ですが、この点については、もう少し関連する本を読んで考えてみたいと思います。