読書メモ

根本 彰(2019)『教育改革のための学校図書館』東京大学出版会.

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根本先生の著書『図書館教育論』を読んだ際に、日米の学校図書館の歴史を比較する意義を強く感じたのですが、この本でも、歴史的なアプローチの強みを感じました。

その上で、幾つか気付いた点を記録しておきます。

日米比較をした場合に、これまでは日本の学校図書館の弱さが重視して論じられているように思ったのですが、アメリカを相対化して論じられてもいます。「アメリカモデルというのは世界でも例外的な存在なのである」という指摘から、日本を国際的にどう捉えるべきか、改めて考え直す機会になりました。

アメリカの教育は統制が弱く、開放的である。学校で学ぶべきは知識獲得への意欲を身につけさせる方法であり、学習者同士で共有するというスタイルであって、決して、一定範囲の知識の習得に限定されているわけではない。核になる知識と評価する力を身につけることで開かれた知識にアクセスできるようになることが重視される。 だからこうした学習を支えるためには豊富な教材や資料とそれらを管理するための仕組みが必要になるのである。 しかしながら、その仕組みが学校図書館という制度を通じてしか可能にならないのかについては国際的にも必ずしも意見の一致を見ていない。というのは、公立図書館を設置する自治体数や大学図書館を設置する大学数と比べても学校の数は格段に多いため、学校図書館の設置および専任職員の配置は容易なことではないからである。アメリカはそれを世界に先駆けて行った国ではあった。だが、現在でも、学校に専任の専門職員を伴った図書館が設置されるのが当然とされている国はアメリカの他にカナダやオーストラリア、フランス、北欧諸国など数えるほどしかない。つまりアメリカモデルというのは世界でも例外的な存在なのである。(p.172.)

また、「言葉を獲得する過程と知識を獲得する過程は密接に関わっていて、読書とは書き手の思想を読み取ることではなく、言語的な資料を駆使して自分の考えを確立することだという前提」(p.297.)という話にもみられるように、言葉の獲得が単にスキルの獲得ではなく、知識の獲得も含んでいるという指摘は一貫して読むことができました。このような指摘は、「経験主義を発展させた探究型学習を行うために、書物を中心とした言語的素材を豊富に備えた図書館が中心的な施設として配置されることになる。」(p.299.)とも関連しており、探究学習の「コンテンツ」や「知識」をどう捉えるべきか、という点を考えるきっかけとなりました。

その他、個人的な印象なのですが、本書で探究型学習が語られるとき、アメリカにおける「教育の現代化」の中での探究学習のようなモデルが多少重視して論じられているように思いました。つまり、「学習者を小さな研究者と見立てる」という発想です。個人的には、この発想以外の探究もありうるというか、例えば、「学習者を市民として捉える」発想からの探究学習もあるように思えるのですが、こういった発想も「小さな研究者」の像の中に含まれうるのかが気になりました。公共的な課題を一市民として考えるのは、社会科学者として考えるのとでは、アプローチや態度が異なってくるのだろうかと、考えもしました。
おそらくこの本書の特徴は、学校図書館と探究学習を繋いだ際の一つの形として表出しているようにも私は感じたのですが、学校図書館の社会的な機能の複数性をどのように捉えるべきか。この点は今後も考えていきたいなと思いました。

構成主義的な教育論の立場によって展開されるのが、これまで取り上げてきた探究型学習である。探究型学習におい て、学び手は基本的に研究者となる。知識は先験的に存在するのではなくて自ら獲得するものである。自らの経験をもとにして仮説を立て、仮説に対する認識を自ら検証しそれを反復することによって得られるより高次の認識(反省)と のやりとりとの循環的な過程が研究にほかならない。そうした過程を共有するとはいえ、学問あるいは科学の方法を身 につけている研究者とそうした前提をもたない学習者とは同じではない。学習者の探究的方法はあくまでもこうした過 程を経験することを通じて、自己とその対象を弁証法的に認識することである。対象の観察、すでに確立されている実験の再現、対象事象の関係者に対するインタビュー、同じことを経験した者どうしの意見交換等々の探究の方法は、科学的方法に照らせばいかに素朴なものであろうとも、学習者本人にとっては新しい知的探究なのである。(p.298.)

以上、勉強になりました。

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