
子どもの声を大切にする・取り戻すことの意義、必要性を、社会的養護を必要とする状態にある子どもの視座から考えていく本です。
本書で何度も出てくる「環状線の断面図」のイメージはとても分かりやすく、同時に自分の立ち位置や、声を取り戻すプロセスをイメージする上で大変参考になりました。随所に出てくるイラストのイメージも分かりやすいです。
アドボカシーの定義や複数のアドボカシーの種類の整理、日本にその概念が受容されてきたプロセスも丁寧に紹介されています。また、社会的養護を必要とする状況にある子どもたちの様子も詳細に描かれています。
私が読んでいて特に印象に残ったのは、声を取り戻す目的についてです。とりわけ、それが、何らかの教育目的へと回収されていくのではなく、目の前の子どもの権利を守り、自分自身の人生を生きるコントロール権を取り戻すためにこそやるべきなのだ、という立ち位置でした。
失われた「声」を取り戻し、自身の人生のために、そして時に社会に発信していく存在になるということは、子ども自身が自分の人生を生きるコントロール権を取り戻すプロセスでもあります。ただ、私たちは必ずしも一番右の社会に発信していくこと(社会への参画)を目指してはいません。まずは、子ども自身が奪われてしまった自らの「声」を取り戻す、そのことに力点を置いて考えています。(p.20.)
アドボカシーという概念が広がるにつれて、アドボカシーの目的がおとなの意図にすり替わってしまう危険も感じるようになりました。アドボケイトが関わり、子どもが自分自身で自己主張の術を学ぶのだという「教育目的」に回収される場面をみてきました。また、逆に子どもがアドボケイトに頼ってしまって、話せなくなったとしたら自立を阻害するので不要だと言われることもあります。結果的に自己主張の術を学ぶ機会になることはありますが、それが目的ではないと思います。…(中略)…おとなたちによって子どもの自己決定を奪われてきたことを取り戻す目的のために、アドボケイトは活動するのです。「教育目的」でも、おとなが設定したニーズを聴く聞き取り屋でもないことを改めて強調しておきたいです。(pp.137-138.)
学校教育の授業文脈で考える場合、本書に出てくるような「子どもの声を大切にする」という言葉が出てくる背景をしっかりとイメージし、ある意味で禁欲的というか、その想いをイメージした上で、この言葉を使わないといけないようにも感じました。それこそ、何らかの教育政策上、学習指導要領上のトピックとつなげて教育目的として利用しすぎないように。主体性、社会参画、表現力等々、その必要性の背景をいかにイメージするかで話が変わってきそうです。
そういう意味でも、国連子どもの権利条約にもある「最善の利益」(p.71.)という視点はとても大切であるように感じました。
同時に、本書で出てくるアダルティズム(子ども差別)の思想は、社会的養護を必要とする子どもたちだけに限られた問題でもないとも感じます。とはいえ、「子どもの権利」「子どもの声」と言った際に、その言葉のむこうに子どものどんな生活や日常を想像するのかという点はとても重要なのは間違いなく、ここら辺の文脈性をどのように理解して学校教育の授業や教育とつなげて考えていくかは、私自身の今後の課題だとも感じます。
勉強になりました。