読書メモ

【本】木前利秋・時安邦治・亀山俊郎編著(2012)『葛藤するシティズンシップー権利と政治-』白澤社.

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目次は以下の通りです。

はじめに
序 再定義されるシティズンシップ
第1章 近代的シティズンシップの成立と衰退
第2章 リスクとシティズンシップ——「格差社会」における不確実性
第3章 近代的諸権利の成立条件——最初期マルクスの理論的模索
第4章 集団別権利と承認/再分配
第5章 多文化的シティズンシップ——キムリッカのリベラル平等主義の構想をめぐって

『変容するシティズンシップ:境界をめぐる政治』の姉妹本です。

シティズンシップ概念に関わる考察が整理されており、『変容する~』と共に、読みやすいです。

とりわけ「葛藤」というキーワードのもと、シティズンシップの歴史的な論争点や、現代の代表的理論への批判などが紹介されているように思いました。

印象に残った点をメモ。

一点目。

先ほども述べた通り、歴史的に存在するシティズンシップをめぐる葛藤が描かれている点です。

例えば、『シティズンシップと社会的階級』で有名なマーシャルの思想を、彼自身が既に見ていた葛藤から描き直している点は個人的にも刺激を受けました。また、マーシャルが述べる三つの権利(市民的権利、政治的権利、社会的権利)は有名ですが、その中でも特に市民的権利と社会的権利の相克が可視化されることによって、三つの権利が段階的・単線的に発展してきたわけではないことがよく分かります。

本稿では、マーシャルをシティズンシップをめぐる葛藤を描いた論者として位置付け直す。福祉国家に至る道筋で、深刻な葛藤があったことをマーシャルは語っているのだ。そして、平等な社会を実現したかに見えた福祉国家に新たな矛盾が胚胎していることもまた、マーシャルは指摘している。20世紀中盤の福祉国家を相対的な安定期として評価する一方で、その前後の時代についてはシティズンシップをめぐる葛藤にもっぱら関心をよせていたとすらいってよい。

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私的所有権や自由権を中心とする市民的権利に基づく自由な市場は、不可避的に所得の格差と社会的階級を生み出す。こうした不平等は、社会主義運動の広がりにあらわれているように、多くの人々にとって受け入れがたいものだ。しかし、教育や社会保障などの社会的権利により、標準的な文明生活が保証されるのであれば、市場から得る貨幣収入の多寡は受忍されうる。そしてその社会的権利のあり方は、普遍的な政治的権利の保障による万人の政治参加によって決定される。こうした市民的権利と社会的権利の相克は、福祉国家において調停されるというのが、「シティズンシップと社会的階級」に構想である。

p.29.

また、マルクスの思想を紐解きながら論じられている第3章では、シティズンシップ概念がメンバーシップや特権、権利などという論点としては古くからあること。そして、資本主義とシティズンシップ、さらに民主主義の関係が常にぶつかり合うさまが描かれています。

資本主義にとってシティズンシップとその諸権利はつねに両刃の剣のように働く。資本主義が一定の発展を遂げるには、民主主義にもとづく様々な権利の獲得と拡大が不可欠になる。しかし、法的な権利を政治的・社会的に保障する段になると、シティズンシップの権利の浸食や衰弱、権利間の葛藤が避けられなくなる。資本主義と民主主義の葛藤のドラマは、シティズンシップが不断に進化していくという神話の終焉を常にあらかじめ告げてもいる。

pp.117-118.

二点目

ヤング、フレイザー、キムリッカなどの代表的なシティズンシップの論者の論を整理しながら、批判的検討を重ねています。フレイザーとヤングの違いについては、概念戦略が異なっているだけで、どちらが優位だと論じることに意味がないとしてはいます(p.144.)。

その上で、ヤングの論に対しては、「どこか共和主義のユートピアを捨てきれていない」として、やや批判的に論じています。

共和主義のユートピアへのヤングの傾倒は、たとえば利益集団多元主義 (interest group pluralism) と異質な公衆の対比に見てとれる。利益集団はアイデンティティの構成要素とはならず、社会の共通利益を考慮せずに私的で特殊な利益を追求し、公的な討論による意志決定を阻害するとされる。他方、 抑圧された)社会集団は社会の共通の利益に貢献することが素朴に前提されている。しかしながら、利益集団と被抑圧集団を区別することは、理念型としては可能だとしても、現実には容易ではない。・・・(中略:斉藤)・・・結局のところ、民主主義的な意志決定に参画して共通利益に貢献する公衆であるかどうかは、抑圧されているかどうかで決まるのではなく、人々が市民の徳をもつかどうかで決まるはずである。 A・スミスのように、各人の自己利益の 追求が全体として共通利益を達成するような自動調整メカニズムを想定しないかぎりは、社会の共通利益を論じるのに徳の議論は避けられないのではないだろうか。

pp.154-155.

このように述べ、シティズンシップに古くからある徳の議論、言い換えれば、市民としての持つべき資質の議論をどう捉えるかという点が、論点に浮上しています。

また、キムリッカの論の整理も多くされていたのですが、リベラルな社会とは存在するのか、マイノリティはリベラルな社会を望んでいるのか、というそもそもを問うパレクの論(p.199.)が印象に残りました。

三点目

シティズンシップの議論の中で、公的・私的の線引きの変化の話はよく挙げられますが、現代社会において「労働こそが公的なもの」(p.39.)と考えられる変化について、改めて確認することができました。ハーバーマスの議論を学び直さねばと再認識。
同時に、自分自身の生活の中でも思いあたる場面が多く、公的な事柄とは何なのか?という点について、今い一度考えなおしたいと感じます。

現代の社会政策では生活を営むための労働こそが公的なものと考えられ、人間の本質を含意すると考えられるようになった。労働者であることや親であることがシティズンシップの諸権利を得るための条件なのだ。・・・(中略:斉藤)・・・その一方で、近代において公共性を担保すると考えられた「交際の領域」は、私的なものとみなされる。あるいは、ハーバーマスが文化消費の特徴として指摘していたように、実業の領域に吸収 される。会社のために働くことと文芸作品を読み語り合うことのどちらが公的であるかと問われたとしたら、現代人の多くは、なぜそれが問いとなるのかを訝しみながら、前者だと迷いなく答える だろう。彼らにとっては、実業の核たる労働こそが公的なことがらなのである。このように、 現代の市民性の衰退論には、少なくとも公共性の衰退論と労働倫理論という二種がある。衰退論が複数あることは、〈財産〉と〈教養〉のあり方をめぐる政治的立場と社会政策 が複数あり、相争っていることと関係している。

pp.39-40.

勉強になりました。

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