読書メモ

【本】岡野八代(2009)『増補版 シティズンシップの政治学―国民・国家主義批判』白澤社.

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目次は以下の通りです。

はじめに
序 章 「平等で自由な人格」の尊重からの出発
第1章 シティズンシップと国民国家
第2章 現代リベラリズムとシティズンシップ
第3章 リベラル・シティズンシップへの批判
第4章 フェミニズム・シティズンシップ論へ
第5章 シティズンシップ論再考──責任論の観点から

シティズンシップ概念に内包される市民としての資質とは何かをめぐり、現代的な規範理論の視点から考察した本です。
久しぶりの再読です。

まず、シティズンシップの問題を理解する上でとても分かりやすい論理構成になっていると思いました。

古代からのシティズンシップの概念史を経て、近代的シティズンシップの特性から、ロールズに代表される現代リベラリズムの話へ。そして、リベラルなシティズンシップ観への批判を経て、それを乗り越えるための、多文化主義、フェミニズム、ケアの議論。この全体像の流れが理解しやすい構成になっています。

もちろん、紹介される理論家の主張や込み入った議論もありますし、文章そのものの学術的な性格はあるのですが、著者の岡野先生が大学の授業でも使っていると述べるように、教科書として学ぶことにも適した本ではないかと感じました。

一つ一つの例示や論理もわかりやすいです。

例えば、
近代的なシティズンシップのもつ「国家が差し出す共通の実質的目的に対し、構成員は「忠誠」を誓い、国家という一体への帰属を持つことが要求される。」(p.47.)という論理があることを踏まえつつ、ロールズが、その統一体の契機を排しながら再配分的な国家の正当性を引き出した点(p.71.)。さらには、そのリベラルなシティズンシップ概念は、そうした結果として、人々の実践と参加の原理を欠いてしまうというパラドクスをもたらす点、(p.121.)などは説明としてもとても分かりやすいように感じました。

印象に残った点をメモ。

一点目。

外国人の権利としてのシティズンシップに論点が置かれている点です。

本書の最初に執筆動機(副題としての国民・国家主義批判)ともかかわるのかと思いますが、国家的なまとまりでシティズンシップを語ることへの批判が強く見られます。

すなわち、現在の国境によって寸断された状態での諸権利の実現は、常に国境内外に差異をつくり出してしまうために、権利の実現が妨げられている人々を生み出している、という近代国民国家の根本的矛盾が、本書全体で批判的に論じたいテーマなのだ。

p.18.

市民権は、国民だけが享受するのではなく、外国人居住者であっても市民権の一部、つまり市民的権利や社会的権利だけでなく、時には地方参政権といった政治的権利の一部も享受している点である。よって、外国人であっても市民であるとは言えるのではないか。

pp.24-25.

そういう意味で興味深いと思ったのが、現代の移民問題について、アッカーマンが想定しているとされる宇宙船の乗組員の対話をめぐる紹介でした。「どちらの乗組員も、この惑星が「自分たちの」惑星であることを要求できない。また、両者の間に交される対話の主題は、あくまでマンナをいかに配分するかであって、両者がどのような共同体を創造するか、あるいは遅れてやってきた組員たちが先に着陸した乗組員たちを侵略するのか、あるいはかれらに同化するかではない。」(pp.90-91.)という話などは、外国人の権利を考える上での示唆に富むように思いました。

二点目

現代社会をめぐる政治的共同体と文化的共同体の関係性についての示唆を与えてくれる点です。

リベラルなシティズンシップ論への批判以後、文化、伝統、歴史をシティズンシップの議論とどう紐づけていくかが一つの論点となるのですが、キムリカ(キムリッカ)のような、政治的共同体と文化的共同体の二分法(p.138.)が紹介された後に、その批判として、ヤングらの批判が紹介されています。そして、結果として、政治的共同体と文化的共同体が二分化出来ないという話は、「終わりなき闘争」のビジョンへと発展していきます。

問題は、キムリカが理論上二分化したようには、わたしたちの政治的共同体と文化的共同体は明確に 分離しておらず、実際に一つの政治的共同体は、一つの文化的共同体を背に従えることでその他の文 化的共同体を排除、抑圧してきた、という歴史が存在することである。 リベラルが、政治的共同体は「差異に目をつぶり」、個人を個人として平等に扱うべきだ、と唱えようとも、歴史的にマイノリティで あることを余儀なくされ、さらにはマジョリティの価値観や生の構想を内面化することなしには生きる ことが不可能であった者たちにとって、この政治的共同体に帰属することがマジョリティの価値観や生の構想への同化の強制を意味してしまうことがある。この事実を真剣に考えようとするならば、国民内部における多様な善や自己のアイデンティティに関する承認をめぐる闘争は、避けるべきものではなく、 私的な領域に閉じ込めておくべきものでもない。むしろそうした闘争は、マジョリティの生の構想、文化、価値観を問い直し、マイノリティに発言の場を提供するためにも、丹念に拾い上げられねばならない、終わりなき闘争なのである。

pp.153-154.

三点目

本書の後半では、フェミニズム理論を下地にしながら、シティズンシップが語られていくのですが、本書でも強調されている通り、フェミニズム・シティズンシップが「女性のみを主題とするシティズンシップ論ではなく、いかなる者の視点をも排除しない可能性を秘めたシティズンシップ論である」(p.184.)とされています。

実際、ベイトソンのフェミニズム理論におけるディレンマの話は、女性以外の場合にも当てはまる普遍性をもった枠組みだと思いますし、公的/私的の境界線を引く問題は、シティズンシップや市民とは何かを規定する、最大の論争点のようにも見えました。

すわなち、シティズンシップを論じる場合に必ず、公的/私的の間に境界線を引くことになってしま うのであるならば、そこで語られるシティズンシップ像こそが、家族という制度をそのシティズンシップ に見合う形で生み出していると考えることができる。シティズンたちの活動する場ではない、と政治 的に取り決められてきた家族が、いかにしてシティズンたちの活動の場である公的領域におけるさまざまな特権的立場を支えているか。 そのことを考察することが、 従来のシティズンシップ論を脱構築することである。

p.191.

四点目

ケアの視点、さらにいえば、ヴァルネラブルな存在(傷つきやすい存在)である人々に着目することがシティズンシップの議論にとって重要であることを感じさせてくれる点です。

とりわけ、本書後半で語られている、グディンの責任論の話は、個人的にはとても分かりやすく、同時に従来私的だとされてきた問題を社会的に捉えていくための道筋を示してくれているように思えました。

グディンにおける責任論の特徴は、かれが批判する契約論的な「責任」と異なり、ある任務が実行できることから生じる責任ともいえる。 契約論的な責任論が、帰責責任 blame-allocating sort of responsibility を意味し、過去の行為にその帰責事由が求められるのに対して、グディンが着目する「責任」は、責任が果たされることによって、ヴァルネラブルな存在を異なる未来の環境へと送り届ける、という意味においても、責任を果たす者の過去に囚われない、という意味においても、未来志向的な責任論である[ibid:149-150]。さらに、契約論モデルは、誰が責任をとるべきか、その議論を集中しがちであるが、 VMは、〈誰が危害に晒されているのか〉、〈その危害を誰が最も効果的に緩和しうるか〉に着目する。 それは、個別契約関係に責任を還元せず、むしろ社会構造の中で否応なく傷つきやすさが創出されることに注意を喚起し、ヴァルネラブルな者をケアする責任を社会の中で分有し、ケアが必要な者が放置 されない仕組みへと議論を促すのだ。

p.272.

本書が出て以降も、著者はケアの議論をどんどんと発展させているように思うのですが、シティズンシップにおけるケアの議論の重要性やポテンシャルを感じると共に、このような視点で見ることによって、ヴァルネラブルな人々の存在を社会全体として捉え、考えていくことが出来る可能性を感じました。

勉強になりました。

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