
シティズンシップ教育を、欧米の教育哲学や教育思想の観点から捉えようとしている本です。福祉国家の危機以前の話はもとより、近代以前の話も豊富に含みこまれており、シティズンシップ教育の教育史に関心がある私としても、大変興味深く読むことができ、同時に勉強になりました。
アメリカの革命論における憲法の権威性と、教育における教育者の権威性を対応させた議論は興味深く感じました。同時に、市民や子どもとはどういう存在なのか、という問いが同時に浮き上がってくる感じがします。
革命論において憲法に見出される権威性が、ここでは教育者に見出されている。いずれの場合も、権威は、世界の継承と更新に関わっている。別の言い方をすれば、法も教育もともに、新しい人々の参入を支える働きを持ち、それを通じて世界に新しい「はじまり」をもたらす役割を担っているのであり、その役割を果たすことにおいて権威は正統性をもつのである。(p.57.)
また、シティズンシップ教育が、「国民」のようなあらかじめメンバーシップが画定されている集団にとってのものではないことを実感するためにも、第6章にあった、デューイ、ハーバーマス、アレントの議論を補助線に入れるのは参考になるなと再認識しました。
第8章のフーコーの議論における、「自己調整、自己コントロールに基づく学習、自律的学習は、できるだけ介入せずに少なく統治する技術である自由主義的統治に重なるのではないだろうか」(p.149.)の指摘と、15章のシティズンシップのパラドクスないしエイジェンシーの両義性の議論は関連付けて読むことができる。「エージェンシーは、『従属化に包含されていること』と『権力に対抗する』こととの両面の間で、常に揺れ動いているわけだ」(p,271.)の指摘は重要だと感じました。
11章のシティズンシップ教育と宗教の話では、スピリチュアリティとホリスティック教育の話が登場します。アメリカにおける市民宗教のようなものが頭によぎりつつ、その思想を社会全体で共有することの難しさを感じる面もあり、この点は今後も考えていきたいです
第14章の「若者世代と政治」に関して、「新たな政治的主体理解」をいかにしていくべきか、考えさせられました。本章では若者曽中心に、推し活・ヲタ活の実施度や、ソーシャルビジネスへの関心が他の世代より高い点を踏まえつつ、「若者特有の政治文化が醸成されている可能性が考えられうるということ」(p.261.)を指摘しています。むしろ、若者の政治的主体性の捉え方自体を考えなおすべきことを主張したものであり、その後に紹介されているバトラーの「五感のデモクラシー」の話を含めて、印象に残りました。政治参加、社会参加の前提となっている暗黙裡の前提に対しても捉えなおしを促しているようにも個人的には感じました。
以上、色々と刺激を受けることが多々ありました。
その上で、読後感として、シティズンシップ教育を歴史的に語る際に、「シティズンシップ」と「教育」の距離感が難しいなと再認識します。歴史的に見ると、シティズンシップの教育というのは、良し悪しは別にして、各時代の政治に利用されてきた側面(もしくは、良かれと思った行った教育が思わぬ方向に引きづり込まれていく側面)はあると思います。そういう意味で、シティズンシップを教育しようとする発想、行為の恣意性自体が非常に政治的なわけですが、本書では教育思想や教育哲学などに依拠して、そういった部分を批判的に考察をしている分、政治利用されるシティズンシップの「教育」の側面が少し薄めて描かれているように感じました。私がそう感じたのは、本書が、シティズンシップ教育の「歴史的側面」を多く扱っていたからに他ならないのですが、教育思想や教育哲学のアプローチに対する私の勉強不足も多くありそうです。また、「教育」の意味自体への理解も含めて、悩ましくもあります。
とはいえ、というかそれゆえに、本書の内容からハッと気づかされる点は多く、色々と刺激を受ける内容でした。勉強になりました。