
南川先生の本は既に何冊か読ませていただいていますが、アファーマティブアクションの歴史や現在を理解するうえで、とても勉強になりました。いくつか感想をメモしておきます。
一つは、制度的人種主義とは何か?という視点は今も有効ではないかという点です。
アファーマティブアクションが生まれた背景として、「制度的人種主義の発見」があったとされます。
1964年公民権法以降の人種不平等を形づくっているのは、人種差別的な意図や偏見に関係なく、それぞれの制度的文脈における「合理的な」判断の蓄積が特定の人種マイノリティを不利へと追い込む構造である。公民権法によって形式的な平等が保障されたとしても、これらの不利は互いに結びつき、人種間の格差を固定化してきた。ブラック・パワー運動が制度的人種主義と呼んだものは、このような人種不平等を再生産する構造であった。(pp.15-16.)
ここで言う、意図的な差別ではなく、合理的判断の蓄積で作られた制度が、マイノリティを不利に追い込むという構造、この理解がとても大切だなと改めて思いました。一見すると、制度に非はないのではないかと反論も出てきそうですし、分かりやすく可視化されにくい差別も含めて、批判的な構造分析をできることの重要性を感じます。
二点目は、ニクソン政権下でのフィラデルフィアプランの話は、差別是正をめぐる様々な点を象徴している感じました。最初のアファーマティブ・アクションの取り組みが多面的で多様な対応があったのに対して、ニクソン政権かの修正版フィラデルファイプランでは、数値目標を設定し、その実現を強制する制度実施が進み、それが多くの人の違和感を増幅させた、と指摘されています(p.47.)。このような構図って、アメリカ以外でも有りそうだなあと想像しながらよみました。分かりやすい数値目標の方が、画一的な施策実施や実施状況を管理するのが効率的である、という見方は確かにあり得そう。しかし、その画一性が利害対立を生むのだという点は様々なケースに示唆がありそうだなと感じました。同時に、ニクソン政権が、アファーマティブ。アクションを「安上がりな人種政策」だと見なされていた点も、認識しておきたいところだと思いました。
三点目は、アファーマティブアクションが二項対立的な構図を持っているという認識が、あとから作られていくプロセスについてです。初期のAAはそういうものではなかったのに、裁判や論争を通して、二者択一的な構図にされていった点が印象にのこりました。
初期のAAには多様な取り組みが含まれ、人種不平等の是正のためには さまざまな角度からのアプローチが必要だった(第1章)。また、ジョンソン大統領の1965年の演説では、「機会を求める」ために「結果としての平等」を追求したように(序章)、 二項対立的に理解されがちな理念も、完全に相容れないものと考えられたわけではなかった。しかし、バッキ裁判をめぐる論争では、人種不平等へのアプローチについて、二者択一の対立構図が優先されるようになった。不平等な状況を作り出す複雑な現実を見据え、複数の選択肢のなかから適切な改善策を探ることよりも、賛成か、反対かという立場性の表明が、 議論の中心となった。アファーマティブ・アクションへの賛否は、一政策の是非だけでなく、 人種主義への態度を推し量るシンボリックなアジェンダとなったのである。(p.89.)
これを読んで思うのは、論争性を含んだ制度の議論をする際に、分かりやすく二項対立化しない点の重要性と、二項対立に仕立て上げがちな人びとやメディアを含めた動きについてです。この点は注意しないとなあとは思いました。
四点目は、アジア系移民の語られ方の多義性についてです。最高裁判決の裁判に影響を与えた団体として、SFFAとAACSなどがあったわけですが、いわゆるエリート移民で最難関エリート大学の進学の壁を壊したいアジア系移民が一方ではおり、他方で、多数のアジア系移民はアファーマティブアクションには支持に回っていた、という状況に複雑さを感じます。同時に、こういう話を見ていると、「(本当に支援されるべき)マイノリティとは誰なのか?」という点が見えづらくもあり、悩ましいです。
最後に、クオータ制度に対するアメリカ史での位置づけが印象に残りました。本書にも書かれている通り、クオータ制も現代でも有力な政策として国によっては論じられますが、アメリカの場合、クオータ制と人種が連動してきた歴史があり、ネガティブなイメージがある、という話でした。割り当てなのか、優遇政策なのか。その境界線は実は結構悩ましいなあと感じました。同じく他のクオータ制でも様々な論争はあると思われ、そういった歴史も勉強していきたいところです。