読書メモ

姫野完治・生田孝至編著(2019)『教師のわざを科学する』一莖書房.

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目次は以下の通りです。

第1章 教師のわざとは
第2章 教師のわざと授業研究
第3章 教師の「ことば」と「語り」を科学する
第4章 教師の「ふるまい」を科学する
第5章 教師の「みえ」を科学する
第6章 「授業づくり」を科学する
第7章 「わざの伝承」を科学する
第8章 教師のわざを科学するということ

教師の暗黙知的な「わざ」を実証的に解明しようとする研究の成果です。本書含め、三作シリーズが出ております。

教師のわざの中でも、特に、「みえ」の視点を重視しているように思いました。斎藤喜博の著作も何度も引用されています。同時に、喜博の島小学校における授業研究の様子も紹介されています。

授業は教師と子どもたちとのコミュニケーションによって成り立っており、教師には、子どもが発しているサインを察知し、刻々と変化する授業の流れを捉え、臨機応変に意思決定を行うことが求められる。その基盤となるのが、教師の「みえ」である。斎藤(1969)が「教育とか授業と何おいては『みえる』ことは『すべて』だといってもよいくらいである」というように、教師にとって「みえる」ことは極めて重要であり、それによって授業の成否は大きく左右される。

p.98.

わざを科学的に考察しようとする本書には、ウェアラブルカメラを使った実験や、VRを使った実験など、教師の「みえ」を様々なアプローチで示そうとする論考群が並んでいます。

印象に残ったのは次の二点です。

一点目。
教師の「わざ」を科学的に研究しようとする背景として、日本における授業研究の価値やその現在の形骸化の問題を強く念頭に置いている点です。
本書では、これまで語り継がれてきた教師のわざが継承されなくなってきたこと、それゆえにわざの科学的な解明や、それの効果的な継承方法を創造しようとする発想が何度か指摘されています。Lesson Studyとして海外に授業研究が普及する一方で、日本の校内授業研究が形骸化してきていること(p.128)なども指摘されていました。

日本の学校で受け継がれてきた校内授業研究は、明治時代から140年以上にわたって、学校という場で教師同士が語り合うことにより創り上げられ、「みえ」をはじめとするわざの継承に寄与してきた。教師は、「子どもたちがいかに学ぶか」についての知識を、意識的・無意識的に関わらずもっている。そういった個々の教師の授業や子どもの「みえ」に着目して、その背後にある教師自身の枠組みや子供との関係を語ることによって、自らの教育観や子ども観の再構築が促されてきた。

p.128.

熟達教師のわざや知恵は、経験と勘に支えられた名人芸と言われ、暗黙的で伝承が難しいとされてきた。だからこそ、教師同士の教え合いや学び合いによって、徒弟的に学ぶ環境をつくることで知を伝えようとしてきた。とはいえ、教師の蓮玲構成のアンバランス化や学校規模の縮小化によって、知を伝え・受け継ぐ環境が変化し、また多忙化や働き方改革によって教師同士で授業や教育について語る機会が減少する中、熟達教師のわざを対象化し、可能な限り明示化するとともに、新しい情報技術などを活用することによって効果的に伝えるすべを創造することが求められている。

p.14.

二点目。
「第8章 教師のわざを科学するということ」の中で、技術論や教育技術論を研究する意義が様々な視点から論じられています。

個人的には、戦前戦後から教育技術を正面から論じた代表的論者とされる、城戸播太郎と海後勝雄の話に興味惹かれました。二人とも、「伝統的な教育学から実践的な教育技術に重点を置き、新たな教育技術を駆使した教育方法により社会変革を志向した」(p.220)とされます。

特に、海後に関する以下の説明などは、教育技術こそ本質であるとの捉えも出来、考えさせられます。逆に、技術論を従属的な問題として語ろうとする文化が過去にあったという話は、現代とも無縁ではないようには感じました。

実践の反省的所在として理論が形成されるが、教育の技術に自己を体現することによって、新しい教育への発展が可能とする。理論と実践の関係を「技術よりいでて技術への再帰」として教育技術の特質を示している。技術を自然的技術と社会的技術に分けて考察し、教育技術を社会的技術の範疇に位置付けるが、それまで教育技術を授業での技巧として目的に従属するものとして見なされていたが、「教師と被教育者の間で行われる、特定の歴史的段階における、実践手段の体系」とし、教育の技術から再考している。

pp.219-220.

城戸も海後も、上記のような文脈から、学校建築にはじまり、机、椅子、実験器具楽器、様々な最新機器に至るまでの技術論を詳述しようとしたそうです。
このような文脈と関連して、本書では、現在の最新のICT技術が、「対面を前提とする教師のわざ」に対してどのような影響を与えるのかを問いかける場面もありました。

教育技術論の重要性を鑑みる立場から見た場合、ICT技術の発展が、教師の役割や授業のあり方をどこまで変えうる(もしくは、変えるべき)と言えるのか。これは、それこそ技巧的な問題ではなく、非常に論争的かつ、本質的な問題なのかもしれません。

その他、「みえる」わざに確信が持てない一教師が、子どもの読みやその深まりを理解するために、認知科学や認知心理学の知見を借りていくプロセス(p.158.)の話や、わざ言語で有名な生田久美子氏が、ネガティブ・ケイパビリティ論を論じている内容(p.254.)なども印象に残りました。

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