読書メモ

【本】稲垣佳世子・波多野 誼余夫(1989)『人はいかに学ぶか―日常的認知の世界―』中公新書.

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目次は以下の通りです。

第1章 伝統的な学習観
第2章 現実的必要から学ぶ
第3章 知的好奇心により学ぶ
第4章 ことばや数を学ぶ種としてのヒト
第5章 文化が支える有能さ
第6章 文化のなかの隠れた教育
第7章 参加しつつ学ぶ
第8章 知識があるほど学びやすい
第9章 日常生活のなかで学ぶ知識の限界
第10章 新しい学習観にもとづく教育

「日常的認知」の視点をもとに、学びのメカニズムや学びが深まる・深まらないとは何かといった考え方について、検討が行われています。
日常的認知の言葉にもあるように、エピソードや実験の例などがとても具体的で読みやすい内容となっています。例えば以下の内容など。

キャンディ売りの子どもに見られたこのような「数学的」技能や理解は、学校の経験が土台となって学べたというものではない。・・・これらは、学校で教師によって教えられたからではなく、日々のキャンディ売りの経験を通してみずから学んだ(構成した)ものなのである。        

p.39.

いずれにせよ、生活上の現実的必要に関わる知識や技能は、教え手によって体系的に教授されなくても、学び手自身の学ぼうとする強い動機づけによってたいていの場合学ぶことが出来るのだと言えよう。  

p.30.

幾つか印象に残った点をメモします。

一点目
本書が、学び手が、自分が属する集団や場の「文化」に大きく影響を受けている点です。本書の表現で言えば「人々が日常生活で示す有能さの多くは、文化によって支えられている」(p.84.)」という点です・

この話は、「より成熟した他者と共働する、という文化的準備を必要とすることが多いのである。」(p.127.)という正統的周辺参加論に近い話でもそうですし、様々な場面において、私たちの「学び手としての有能さ」が、日常生活の文化によって与えられる援助やヒントによって、高くなっていることを示している(p.95.)という点にも言いうることかなと感じました。

同時に、「学校は「文化的真空」ないし文化の援助やヒントを最小限にした環境と言えるが、ここで有能でなくても、日常生活では、何ら問題でないことが多い」(p.95.)という点を著者はある意味で問題視しており、その接近を必要としているのですが、この点については色々と考えさせられました。

おそらく、学校の授業という形態も、ある種の文化をまとっており、それが日本人を前提としがちであったり、(著者も示唆する通り)ある種の学習の型や能力観を良しとするように構造化されているところもある。だからこそ、その学校文化そのものを読み解き、編み直していくような、そういうプロセスが重要なのだろうかと感じました。

 二点目
教師が能動的で有能な教師であるための支援策を論じている点です。これは本書の最後数ページなのですが、本書を象徴するような気がしました。

学び手としての能動性や有能さを引き出すには、教師が肯定的な学び手のイメージをもち、彼らを信頼することがまず必要だが、それだけ十分というわけではない。どんな考え方をとる場合もそうだが、よい実践のためには、教えての創造力が決定的に重要である。

pp.192-193.

だからこそ、「教育行政が果たすべき最も重要な仕事は、教師がこのような能動的で有能な学び手でありつづけることを保証することである。」(p.193)なのであり、その点において、日本にはよい伝統が残っているとしています。       

日本の教育のすぐれた伝統のひとつは、教育に関する知識が、研究者によってのみ生産されるのではなく、子どもと直接かかわる教師によっても見出されるのだ、と関係者が信じていることであろう。このことが今日の受験体制や、あるいは管理化の進行にもかかわらず、なおかつ日本の教育の長所として残っている、と思われる。     

p.194 .

教員自身が実戦の中で創意工夫をしている感覚やその感覚を共有したり創発していく必要性を感じました。同時に、日本に古くからある「授業研究」の文化の重要性や意義も感じる場面でした。

そのほか、

日常生活で獲得された有能さのなかには、単に「手際のよさにもとづく有能さ」もあり、その手続きの意味理解に繋がらない者もあるという話(pp.157-158) も、習熟や熟達をめぐる多義性を理解する上で参考になりました。       

また、「日常生活において、人びとが能動的で有能な学び手であるとはいえ、意図的に教えられることなしに獲得し得る知識には、どうしても限界がある」(p.173)という話や、   既有知識の豊かさが、「驚き」や「動機付け」を生むという話(p.48.)から、知識の重要性を再認識もしました。
(とりわけ、日常的認知だけでは社会科学的な知識の多くを獲得できない、という点は印象に残ります。)

一方で、「よく記憶できるかどうかは、大部分のところは、その人がその分野についてどれほど豊かな知識を持っているかによるのである。」(pp.139-140.)という話は、実感もしつつも、納得しきれないモヤモヤ感もあったりします。(純粋に記憶力抜群という人はやはりいるような。。。)

いずれにしても、大変勉強になりました。

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