読書メモ

イヴァン・イリッチ著:東洋・小澤周三訳(1977)『脱学校の社会』東京創元社.

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誰もが知るレベルの名著です。
脱学校といっても、学校をこの世から消そうとしているわけではなく、社会が「学校化」された状況を変化させ、学習や教育の価値を回復するための制度の再設計をめざしているということなのだと捉えて読みました。
以下、数点、論点をメモしておきます。

第一に、義務就学には著者は強く反対しています。

なぜ義務就学に反対かというと、義務就学を進めることによって、不平等が促進されるから、ということだと私は捉えました。

義務就学を行なえば社会は必然的に分極化される。また世界的にみても、義務就学を目安にした 国際的な序列づけにしたがって、世界の国々の等級づけが行なわれる。つまり国々がインドのカー ストのように等級づけられるのであるが、その序列の教育上の威厳はその国の国民の平均就学年限によって決められる。それは一人当たり国民総生産と密接な関連をもつ等級づけであるが、一人当たり一国民総生産によるそれよりもはるかに苦痛を与える等級づけである。学校についての逆説は明らかである。つまり学校への支出を増やすことは一つの国においても世界的にみても、学校のもつ破壊性を強化する。(p.27.)

資格と履歴の結びつきを断ち切るためには、政治団体への加入、教会への出席、血統、性的習慣 あるいは人種的背景についての調査が禁止されているのと同じように、個人の学歴調査を禁止しなければならない。また学歴に基づく差別を禁止する法律を制定しなければならない。もちろん法律をもってしても、学歴のない者に対する偏見をなくすことはできないし、法律によって独学の人と の結婚を強制するわけにもいかない――しかし法律は正当化されない差別を思いとどまらせること はできるのである。(p.32.)

第二に、教えたからと言って学ぶわけではない、というスタンスをとっています。

学校教育の基礎にあるもう一つの重要な幻想は、学習のほとんどが教えられたことの結果だとすることである。たしかに、教えること(teaching) はある環境のもとで、ある種類の学習には役立つかもしれない。しかしたいていの人々は、知識の大部分を学校の外で身につけるのである。人々 が学校の中で知識を得るというのは、少数の裕福な国々において、人々の一生のうち学校の中に閉じ込められている期間がますます長くなったという限りでそう言えるにすぎない。
 ほとんどの学習は偶然に起こるのであり、意図的学習でさえ、その多くは計画的に教授されたことの結果ではない。普通の子供は彼らの国語を偶然に学ぶのである―――両親が彼らに注意していればより早くはなるであろうが。外国語を上手に学習する人々のほとんどは、ふとした事情がもとでそうするのであり、連続して教えられたことの結果ではない。たとえば彼らは外国にいる祖父母の家に行って生活をしたとか、外国旅行をしたとか、あるいは外国人と恋に陥ったとかしてその言語を学んでいるのである。読み方が上手なのもまた、たいていは以上のように学校の正規のカリキュ ラム以外の活動をした結果なのである。ところが幅広く書を読み、しかも楽しく読む人々の大部分は、単純に自分たちはそうすることを学校で学習したと信じている。しかし本当にそうかと問われれば、彼らはたやすくこの幻想を捨て去ることができるのである。(pp.32-33.)

ではどうするべきかという話になると、「個々人にとって人生の各瞬間を、学習し、知識・技能・経験をわかち合い、世話し合う 瞬間に変える可能性を高めるような教育の「ネットワーク」をこそ求めるべき」(p.2.)とされます。ネットワークこそがキーワードです。

具体例として以下のように挙げられています。

私が言おうとしていることの例として、ニューヨーク市でならば、知的探究をしようとしている人々同士を出会わせる方策として、どのようなことが考えられるかを少し述べてみよう。各人はいつでも、しかも最小限の費用で、相手を求めて議論をしたいと思う本、論文、映画あるいは記録物などを決め、自分の住所、電話番号をコンピュータに入れることができる。彼はいく日も経たないうちに、最近、彼と同じイニシアティヴをとった他の人々のリストを、郵便で受けとることができる。彼はこのリストを手がかりにして、まずは同じタイトル(書名とか論文の題目、あるいは映画の題名)のものに関する対話を求め合ったというだけのことで互いに知るようになる人々との会合を、電話でとり決めることができるであろう。(p.44.)

他者に強制されることなく、当人の自主性に基づく、学校空間に制約されない学びの場や関係性のあり方が重視されているように見えます。と同時に、まるで総合学習の大幅な発展版のように、住んでいる町自体が教師であり、学校である、といったイメージを持ちました。

もしも学習の目標がもはや学校や学校の教師によって支配されないならば、学習者の市場ははるかに多様なものとなり、「教育用の加工品」の定義はそれほど狭いものとはならないであろう。道具店、図書館、実験室、および遊戯室が設けられよう。写真の実験室やオフセット印刷機を用いて、 近隣の読者を対象とする新聞をたくさん発行することもできよう。建物前の学習センターの中には、 閉回路テレビを見るためのブース(小室)を備えるものもあろうし、使用するための設備や修理のための設備をもつことで特色を出すものもあろう。ジューク・ボックスやレコードプレイヤーはいたるところにあるようになり、クラシック音楽専門のものとか世界の民謡を専門にするとか、あるいはジャズを専門にするなどして、多少の特色をもったものになるであろう。写真クラブは、お互いに競争したり、商業テレビと競い合ったりするであろう。博物館前の広場は、おそらく様々な大都市の博物館が管理している新しいものや古いもの、オリジナル(原作)や複製品などの芸術作品 を巡回展示するネットワークとなるであろう。(p.155.)

また、これらのことは、狭義の意味での学校や教育について論じているだけでなく、専門家主義・官僚主義的になっている現代社会や、資本主義にもとづく消費社会の根底を問い直そうとしている点が中盤以降ハッキリとしてきます。

能力的な序列を決め、専門家になるのを難しくするのではなく、より個々人が持続可能で、自己の自主性に基づいた関係性づくりや学びのあり方を強く勧めようとしているように思えます。

耐久性があり、修繕可能であり、再生することができるという条件のもとでは、それらの製品は限られたものだけになるであろうが、そのことを補うものは、制度によって与えられるサービスを増やすことではなく、むしろ人々に活動すること、参加すること、および自分の力でやることを絶えず教育する制度的枠組みなのである。われわれの社会が、現在――すべての制度が脱工業化的官僚主義の方向に向かっている――から脱工業化的相互親和の将来――そのときには生産のための努 力よりも有徳な行為のための努力のほうが主となっている――に向かって変えられるとすれば、われわれはサービスを提供する制度――なかでも教育を提供する制度――を若返らせることから始めなければならない。望ましい実現可能な将来が来るかどうかは、われわれが科学技術の知識や技術を、相互親和を深める制度の発展に寄与させる意志をもつかどうかにかかっている。(pp.122-123.)

脱学校は学校を完全に解体するべきという論ではなく、義務的・強制的側面をなくすことが、結果として個々の自主性を尊重し、本当の学びが促される。それは現代社会を象徴する問題として学校に存在するが、社会自体も変わっていく必要がある。読み込みが甘くてお恥ずかしいですが、私はそのような論だと大まかには捉えました。
読んでみて、刺激を受けた点は多々あります。現在担当している総合学習や環境教育との親和性もかなり高い気がします。
と同時に、義務教育が義務であることのポジティブな面をどう捉えていくかという点であったり、自主性に任せた時に、不平等は是正されるのかなどの点は、ずっと悩ましく感じながら読みました。
総合学習と関連付けると、自主的な探究から、授業としての強制的な探究活動になることで、その意味が変容するという構図は脳裏によぎりました。同時に、イリイチが偶発的な学びの場として挙げていた例自体が、体験格差の文脈でみれば個人差があるようにも思えます。

その他、現代の日本社会は、「学校依存社会」と呼ばれるような、イリイチの想定した社会像とはまた違った状況になっているようにも思います。学校が地域や家庭に介入してきたというよりも、社会側が学校に重荷を背負わせ、学校側が変わりたくても変われない状況にも見えます。社会が解決できない問題を、「○○教育」の名もとに、学校に押し付けているの構図もあるように思います。仮に今の日本が学校化社会だとした場合、その学校において教員不足や長時間労働が存在する現状は日本社会にとって何を意味しているだろうか、とも。

また、イリイチの関連書を読んでみたいと思います。

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