
教育における「個性」の語られ方を歴史社会学的に分析した本です。「個性」の語に注目が集まったのは、明治以降で主に、大正期と1980~90年代だとされます。
その二つの時期の個性概念を詳述しつつ、両者の違いを明確に述べています。
大正期の個性を論じる代表例の一つとして、ドルトンプランや成城小学校が挙げられています。個性教育を個別性への対応を突き詰めていく発想として描かれています。
あらためてまとめると、この時期の成城小学校における「個性教育」の本質は、要するに個別学習という手法によって一人ひとりの児童に即した教育を提供しようとするものだった。ドルトン・プランの採用がそれであり、こうして個別性をつきつめた結果が、時間割も学級編制も廃した自学主義によるカリキュラム運営だった。「能率」についての独特の考え方にもとづき、一斉教授にはらまれた集団教育の難点の克服が図られたが、しかし成城小学校におけるこの取り組み は、最終的には成功せずに終わったのである。(p.52.)
同時に、これが一番本書で面白かった点でもあるのですが、大正期の「個性」の捉え方が、「シンプルに各個人にそなわる個体的特徴のことにほかならなかった」点です。
しかしながら、この「個性」把握の実践に関して、今日とは異なるより本質的な特質を見出そうとするなら、それよりもずっと基礎的な次元にこそ照準すべきであるように思われる。すなわち、この実践において「個性」とは、何よりもまず個人にまつわる様々な項目別特徴の集積によって理解されるべき存在であった。しかもその構成要素たる範囲は、知能や学力、性格のみならず、家庭の状況や身体的特徴にまで及ぶのである。したがって、たとえば家の生業や当人の身体的障害までもが当人の「個性」を構成する重要な一部とされていた。つまりはこの実践が明らかにしようとした「個性」とは、シンプルに各個人にそなわる個体的特徴のことにほかならなかったのである。(p.96.)
一方、1980~90年代の文脈の代表例として臨教審による新自由主義的な教育政策が論じられています。当初の、「教育の自由化」の語をすり替えていくプロセスで個性概念が強調されています。
ともあれ、以上の通り臨教審内部において「教育の自由化」論がまずは「個性主義」へとすり替わり、そして最終的に「個性重視の原則」へと転じていった。こうして「個性」の語は、新自由主義教育改革を体現する魔法の呪文となっていったのだった。ここには、戦前の「個性尊重」訓令の時とよく似た構図が垣間見えるようにも思われる。大仰に言うなら、それは「個性」の語にまつわる価値的イメージの巧妙な政治利用にほかならなかったのである。(p.130.)
このような両者の違いについて、本書の終盤では詳述されています。
個性の特性把握のためであった「個性」概念が、1980年代以降に抽象化されて、レトリックと化してしまったということかと思います。
ドルトン・ブランをはじめとする個別教育の取り組みにおいては、現実の一人ひとりの児童を対象化しようとする、きわめて実践的な姿勢が貫かれていたことも確かであった。また同じ頃、学校世界で広く取り組まれていた「個性調査」の実践は、実際に一人ひとりの「個性」把握を目的とするものだった。そしてそこでいう「個性」とは端的に各々に備わる個人性のことにほかならず、それゆえに特に善悪に関わりのない、単なる個体的特徴の総体を意味する概念だったのである。それに対して1980年代を迎える頃には、「個性」の語感からマイナスの構成要素はすっかり切り離され、それはもっぱら肯定的なニュアンスを帯びた言葉として流通するようになっていた。と言うより、第5章で詳しく論じた通り、この頃にはもはや、かつてのようには実体としての「個性」の存在が想定されなくなっていたというほうがおそらく正確である。それはいうならば、「個性」の語がそれ自体の揚力でもって自立し、自己増殖していったプロセスであったわけで、実体としてのそれとはほとんど無関係に、もっぱらレトリックとしての「個性」が浮遊し始める。これは必ずしも「個性」の語義そのものが大きく変化したのではない。この言葉の使われる場面での文脈や含みが変化したのである。(pp.250-251.)
現代に生活する私たちにとって「個性とは何か?」を改めて問い直す必要を感じる内容でした。
個人的には、途中で出てきた、1990年代のユースカルチャーをめぐる「個性的でなければならない」という観念にとりつかれた若者たちの「個性化」願望のはらむ病理性(p.147.)の話は、現代にも通じるところがあるのではないかと思ったりもしました。
著者は「ふたたび『個性ブーム』がおこるようなことは、おそらくもうないだろう」(p.253.)と述べているのですが、私個人としては、現代において教育の標準性や共通性を保持しようとする規範が弱まる一方の中で、「個性」なるものに置き換えられて、個別の教育価値の正当化が行われていく場面は減ることはないというか、デフォルト化していくのではないか、というのが読後的な感想でした。
著者は以下のようにも述べています。
「個性」への傾倒は、平等性が毀損される事態を覚悟せねばならないということでもある。そして、行き過ぎた平等主義が問題だというのなら、無防備な個性幻想もまた、それと同じくらい警戒が必要である。(p.255.)
勉強になりました!