読書メモ

ウルリッヒ・ブラント・マークス・ヴィッセン著(2021訳)「地球を壊す暮らし方:帝国型生活様式と新たな搾取』岩波書店.

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斎藤幸平の『「人新世」の資本論』の鍵概念にもなっている「帝国的生活様式」について、より詳述した本です。斎藤本よりも読みやすくはないですが、新しい気付きがいくつもありました。

帝国型生活様式については、以下のように定義がなされています。


「帝国型生活様式とは、豊かさと自由、そのための競争を求める私たちの『普通の暮らし』に他ならない。それは私たちの社会におけるジェンダー・階級・人種にわたる差別を温存させるとともに、グローバル・サウスにおける過酷な労働を生み、資源を収奪し、文化や生態系を破壊し、結果として地球全体の環境をも破壊している。だが、そうした矛盾や犠牲を目につかないように隠蔽することも、この生活様式の大きな特徴なのである。(裏表紙より)」

本書における重要な論点は、この帝国型生活様式そのものの問題と併せて、グローバル・サウスの国々の発展や、進みゆく環境問題の中で、その生活様式自体を維持できなくなっている、という点にあるます。

「帝国型生活様式は排他性に依拠しているのであり、自分が生み出したコストを転移することのできる外部を保持しているかぎりでのみ存続しうる。ところが、ますます多くの経済圏がこの外部を入手しようとしており、外部化の過程が生むコストを引き受ける用意のある人々、あるいはそうしたコストを引き受けることのできる人々がますます少なくなっているだけに、外部は消滅しつつある。そのため帝国型生活様式は自分自身の魅力と自分自身の普及の餌食になろうとしている。」(p.9.)

SDGsに関しても、グローバル・ノースの政治的エリートの利権含みの試みとして捉えられています。ここら辺は、「SDGsはアヘンである」と述べた『人新世の資本論』を思いだしますね。

「SDGsは、グローバルな政治エリートたちの懸念の表われとして解釈できるだろう。つまりそれは第一に、資本主義世界市場の古典的開発戦略がとりわけ生態学的かつ多角的な危機を背景として、ますます機能不全に陥りつつあることへの懸念であり、第二には、世界中の広大な地域を統制するような帝国型政策がもはや立ち行かなくなっていることへの懸念である。そして第三には、危機とその最も否定的な影響とを他の地域―――すなわちグローバル・サウス――に外部化したり、とくに気候変動や放射性廃棄物のケースについて明らかであるように、それらを未来に向かって外部化したりするメカニズムは時代遅れになってきているのではないかという懸念である。とはいえ、政策的な舵取りをめぐる不屈の楽観主義という点においては、SDGsはこれ以前のもろもろの公的な文書の延長線上にある。」(p.25.)

印象に残った点をいくつかメモします。
一点目は、帝国型生活様式が、生産と消費の規範を生み出す中で、人々を飲み込んでいくということです。一個人がその生活様式に取り込まれていくプロセスは、主体的に選ぶようなものではなく、強制されていくような印象を持ちました。

「生産規範と消費規範を通じて、諸個人の再生産は帝国型生活様式にとって不可欠の契機になり、その前提および結果となる。資本主義の本質的な指標は、労働力の再生産が市場に依存している点にあ る。一人ひとりの生存を確実にするために必要不可欠なもろもろの手段(土地や労働手段)から「自由になり」、「モラル・エコノミー」という共同体的な紐帯から解き放たれて、大半の人びとは生きていくために自らの労働力を市場で売るように強制される。同時に、こうした必然性によって人びとは帝国型生活様式に身を置くように強いられる。しかもそうした強制は、自分の収入を稼ぎ出す生産過程と自分の再生産にとって必要な商品とが他所の労働力や自然の不平等な領有に依存すればするほど、ますます強まっていく。」(p.61.)

二点目は、教養豊かな環境意識の高いエリート層の行動が持つジレンマや問題性についてです。ヴァッパータール研究所の報告を以下のように引用しています(中略も本書に基づく)。

「教養豊かで、高所得、そして環境意識の高い生活スタイルの人びとの共同体――社会環境と言ってもよい――が、同時によりにもよって最大の資源消費を行なっている。(中略)彼らは数多くの面で徹底的に環境を意識しながら意志決定を下す。しかし、そうした意志決定のもつ環境に優しい効果は実際には帳消しにされる。なぜなら彼らには、その物質的状況のおかげで、よりわずかな社会環境にある人びとよりも多くの製品とサービスを享受することが許されるからである。(中略)より低い専門教育を受け、より乏しい資産しかもたない人びとは、たしかにしばしば環境のことを意識せずに行動するが、実際には環境に優しい。その 理由は往々にして、彼らの可処分所得が低すぎるせいで、多量の資源を必要とする生活スタイルが彼らに許されていないからである」。(p,70.)

この話は、6章の「帝国型の自動車移動」において、グローバル・ノースにおいて、交通総量に占める自動車での個人移動が減少しているにもかかわらず、SUVの需要増大が起こっている点(p.145.)や、自動車産業における「エコ」への取り組みと通底する話のようにも思います。環境問題に問題は感じつつも、その根本を正そうとせず利権を保持するがゆえに、結果として状況を悪化させていく話として読めるかとも思います。

「自動車移動の「エコロジー化」という、市場の形態を帯びつつテクノロジーによって 固定された右記のような戦略の核心をなしているのは、帝国型生活様式におけるひとつの中心的な領域を選別し、その領域をエコロジカルに近代化することをとおして、この生活様式を存続させようとする試みにほかならない。道路のこれ以上の建設をいかにして避けるか、あるいは道路をいかにして縮減するか、ひいては本当に必要な道路を可能なかぎり社会および環境と両立可能な仕方で残しておくにはどうすればよいかという決定的に重要な問いは、「交通改革」をめぐる有力な議論の内部では提起されることがほとんどないのである。このことは、右の問いへの答えがエコ効率によってもエコ効果によっても与えられないというかぎりでは不思議ではない。むしろ、それらの重要な問いに答えようと思えば、移動をめぐる問題をより広い社会的な文脈のなかで、かつまた足るを知る(Suffi-zienz)という観点のもとで、主題化しなければならない(第八章参照)。しかしそのためには、帝国型生活様式とそれの基礎にある社会的関係および主体化の形態そのものを問題にせざるをえないだろう。」(pp.168-169.)

三点目は、本書で最終的に提案されている「グローバルでしかも耐久性のある連帯型生活様式」のビジョンについてです。
著者が「日本語版への序文」で、本書が「社会的・生態学的な転換を促すための明確な道筋を提示していない」と述べているように、オルタナティブな道筋を示すことは容易ではないようなのですが、その中でも、帝国型生活様式における「外部化」を「可視化」すること自体に大きな価値が置かれています。

「帝国型生活様式の基本的なメカニズムのひとつは、社会的・生態学的に問題をはらんだそれの前提条件と帰結とを外部化することにある。この生活様式は、劣悪な労働条件と搾取、権威主義的な政治的・社会的諸関係、不安定な生活環境、そして生態系の破壊をシステムとして産み出すのである。外部化のさまざまなメカニズムを廃棄することが、連帯型生活様式をめざすうえでの最も困難な課題であることは疑いえない。そうするための根本的前提のひとつは、この外部化を可視化することである。そしてこの点は、私たちが帝国型生活様式という概念を考案した際の関心事のひとつであった。すなわち、私たち自身の特権は私たちの社会の内部における、しかしながらやはりまた「他所」における搾取と破壊に基礎を置いているという事態を解明し、それについての理解を深めようとしたのだ。」(p.219.)

以上です。

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