
探究学種について、代表的な事例、代表的な考え方、総合や教科や授業実践例、古典や参考文献など、一通りの情報がコンパクトに100頁ちょっとで詰まっている。毎度思うがこの編集・企画力は本当にすごいと思う。
個人的に、5ページ目で奈須先生が言っていた「探究の話は最近、生き残るために有利なスキルのように見えてしまっていて、どこかエリーティズム(優越思想)的なんですよね。」という話や、藤原さんが書かれていた「Equity(公正さ)」の重要性の話などをはじめ、探究の目的や何のための探究なのかという話は、非常に印象に残った。
公正さや民主主義的な価値を重視すべきだという両氏の意見にとても共感するのだけれど、
ただ同時に思うのは、探究の目的を公正さ志向へと誘うの難しさは、独特の難しさを含みこんでいるのだと改めて思える。
児童生徒の興味関心を大切にするという発想は素朴に見れば児童中心主義的なものに近いし、生活科や総合学習においても、児童中心主義を連想させるような実践もあると私は理解している。
ただ、素朴な児童中心主義は、ともすると社会効率主義にも還元されていきかねないし、逆に、社会改造主義まで行くと、生徒の興味関心というよりは、生徒に社会構造を見極めて社会変革を促したいという発想がだいぶ濃くなっていく。(これはアメリカ教育史の教科書的な理解ではあるし、他の主義もあるが略す。)
そういう意味で、児童中心主義的な発想は、そういった政治性を曖昧にすることも多い。
現代において、「自分の好きを探究する」のような探究学習があったとして、それは、児童中心主義、社会効率主義、社会改造主義などの、どの志向性を持ちうるのか。こういう話は本当は重要なのだろうなと再確認することができた。そのような捉えなおしの時に、国内外の進歩主義教育・新教育の歴史の光と影から学べることも多いのだろう。
その他、市川力さんの「みつかる+わかるスパイラルで探究をデザインする」の内容が、前に『知図を描こう』でFeel℃ Walkの手法を学んだときもそうだが、とても腑に落ちるというか、私の好みのようだ。
「突然、課題を見つけろと言われてすぐに降りてくるようだったら苦労はしない。そもそも簡単には課題は見つからないものだというスタンスで始めなければいけない。では、どうしたら自分なりの課題に接近してゆけるのか。そのカギは「なんとなく」から始めることである。」(p.34.)
今回の市川さんの論考では、「個Laboレーション」「弧Laboレーション」「Co Laboレーション」の三つの発見プロセスをじっくりと時間を取って取り組むことが重要とされている。探究を進める学習者の内面的な変化や周りの仲間との関係性などを描くモデルとしても興味深く感じた。