読書メモ

竹端寛(2023)『ケアしケアされ、生きていく』ちくまプリマ―新書.

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目次は以下の通りです。

第1章 ケア?自分には関係ないよ!
第2章 ケアって何だろう?
第3章 ケアが奪われている世界
第4章 生産性至上主義の社会からケア中心の社会へ

著者自身の育児の経験などを軸にしながら、この社会をケアの視点からとらえ直す本です。
男性の研究者が、仕事との葛藤の中から育児のケア的側面に気づいていくプロセスが描かれており、三人の子育てをする身としては、心にしみる内容ではありました。

読後の感想を少しだけメモしておきます。

1点目
これは前提としてですが、ケアの射程を広く捉え、様々な文脈に置き換えて考えられるように設定されています。

ケアって、一見すると「弱者のための特別な営み」のように思う人も多いでしょう。でも、実はあなたの日常がなめらかに、つつがなく回っているのは、普段意識していない、気づかないところで、ケアがうまく埋め込まれているからです。・・・つまり、解像度を高めてみると、あなたの身の回りには、ケアがそこかしこにあるのです。

p.9.

この文脈におけるケアという試みがなければ、私たちは生きていくことはできないし、今の自分はない。にもかかわらず、自分で子育てをしていても感じますが、子育てのケアというのは、社会的に何か分かりやすく評価されたりする類のものではない。その見えにくくも大切な営みを見る目を養っていくこと、さらには、ケアの関係を保障していける環境や制度を作り上げていくこと。これらが本書の意図するところかと理解しました。

二点目
ケアの双方向性が語られている点です。

これは、前に読んだ介護の『男が介護する―家族のケアの実態と支援の取り組みー』と繋がる話だと理解しました。
ケアという行為は一見すると、与える側/与えられる側の非対称的な関係に見える場面もあるが、実際は双方向的な営みであること、が示されています。

つまり、子どもへのケアをすること、子どもと一緒に時間を過ごすことによって、大切な何かを、親も受け取っています。すると、ケアは本当に一方的なのだろうか、という疑問も湧いてきます。

p.52.

今後、個人的に介護について学んでいきたいと思っているのですが、この双方向性という点をもう少し深めていきたいなと思いました。

三点目
他者をケアするという経験が、自分が他者からどのようにケアされてきたのかという点を見つめ直す機会になることです。

実は、他者をケアする経験とは、自分がどのようにケアされてきたか、あるいはされてこなかったか、を見つめ直すきっかけにもなります。あなた自身は、大人から、どのようにケアをされてきたでしょうか?それは満ち足りたものだったでしょうか?自分が充分に開かれたり、受け止められたり、可能性を高めるためのケアをされてきたでしょうか?こういったことを見つめ直すのは、自分が蓋をしてきた「心のかさぶた」をはがすようなことでもあり、ある種の痛みや傷つき、あるいはトラウマと向き合う辛さを感じておられる人も、いるかもしれません。子どもに感情的に怒り出したり、腹立たしさが収まらない時、それは自分自身の余裕のなさだけでなく、自分のみたくない影に直面する恐怖からかもしれません。

p.77.

これは正直、本当に耳が痛い話です。

著者の場合、研究者としての生産主義的な考え方に囚われていたことから解放されていくプロセスだったと描写されていますが、真の意味で自分と向き合うとはどういうことなのか、考えさせられます。

著者の場合、最終的には、仕事の時間を減らす、という選択肢で、自分自身を問い直していきます。

仕事人間だった私の理屈を押し付けることなく、妻や子供のそれぞれの価値観を尊重する、という意味での複数性を担保できたのは、私が仕事を減らしたからでした。子どもへのケアを提供するために時間配分を組み直し、仕事の時間を減らす、という「ともに思いやる(Caring with)」発想は、まさに私の生き方を問い直すことでもありました。

p.86.

改めて、他者のために「時間を確保する」ということが、何にも代えがたい、相手を尊重する行為の一部であるように感じました。だからこそ、一見見えにくいというか。だからこそ、ケアが大切であるというか。コスパという発想と対極にある何かがそこにある気がします。

ここら辺は、昨年に読んだ鷲田さんの『「待つ」ということ』やサン=テグジュペリの『星の王子様』あたりが参照枠になるような気がしました。

四点目。
「昭和98年」という世界観についてです。
この話は、日本が戦前から「魂の脱植民地化」(p. 182.)がされていないという話と繋がってくるかと思います。
戦後の日本が、軍国主義から民主主義への転換ではなく、能力主義的な精神へのすり替えによって、成り立ったようにも読めて、戦後史的な触発をされました。

その状態を「昭和98年」的世界と重ね合わせると、以下の「妄想」が産まれます。1945年に敗戦を迎え、軍国主義国家による呪縛からは解放されました。しかしながら、「欲しがりません、勝つまでは」という植民地化された精神が、「先進国に追いつけ追い越せ」という経済市場主義の形でそっくり残ります。「頑張らなければ、報われる」というがむしゃらの論理が蔓延・延命し、猛烈な能力主義的競争の世界に突っ込んでいきます。それが「大成功」したからこそ、世界第二位の経済大国になったのでした。でも、物質的な成功を得た後、精神や魂をどう成熟させるか、の方法論を見失っていた。それがバブル経済の崩壊以後の30年の姿だったように私には思えます。

pp.182-183.

その他、本書の中で紹介されていた、

・政治学者のヤシャ・モンクの、「子育てや困窮状態にある親類の世話もまた、一つの社会貢献だと述べ、肯定的責任像を提起しています」という自己責任の捉え直しの話(pp.160-161.)
・オープンダイアローグの「不確実性への耐性」という考え方として、見通しのきかない不確実な状況に陥ったとき、「いま・ここ」の不確実さをそのものとして認め、その状況下で一緒に考え続けていくアプローチ(p.184.)が紹介されていること。

なども印象に残りました。

勉強になりました。

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