読書メモ

鷲田清一(2006)『「待つ」ということ』株式会社KADOKAWA.

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「待つ」という言葉の意味を、広げたり、新たなものにしてくれる本だと感じました。
以下、要約というよりも完全に私が本書から感じたことなのですが、記録しておきます。

一般的な「待つ」を超えた見方が、本書から学ぶことができます。
例えば以下のような表現など。

〈待つ〉にも同じように、何を待っているのか自身にもわからないような〈待つ〉があるのではないだろうか。そう、予期ではない待機としての〈待つ〉が。あるいはさらに、あらゆる予期がことごとく潰えたあと、諦めきったあとで、そこからようやく立ち上がってくる〈待つ〉が。

p.28.

待たずに待つこと。待つ自分を鎮め、待つことじたいを抑えること。待っていると意識することなくじっと待つということ。これは、ある断念と引き換えにかろうじて手に入れる〈待つ〉である。とりあえずいまはあきらめる、もう期待しない、じりじり心待ちにすることはしない、心の隅っこでまだ待っているらしいこともすっかり忘れる。

p.55.

待っていることを自分でもわからない待つ。
一見するとわからない感じもするのですが、育児のたとえが私には腑に落ちました。

ひょっとしたら、「育児」というのはそういういとなみなのかもしれない。ひたすら待たずに待つこと、待っているということも忘れて待つこと、いつかわかってくれるということも願わずに待つこと、いつか待たれていたと気付かれることを期待せずに待つこと・・・。家族というものがときに身を無防備にさらしたまま寄りかかれる存在であるとしたら、この、期待というもののかけらすらなくなってもそれでもじぶんが待たれているという感覚に根を張っているからかもしれない。その根がときにあっけなく朽ちてしまうとしても。その根が時に最も残虐なかたちで切り裂かれてしまうとしても。ただ、待たれる方からすれば、それは何か少しずつ堆積していく時間である。・・・(中略・斉藤)・・それは〈待つ〉というよりは、〈待つ〉こと以前の〈待つ〉というべきかもしれない。

pp.55-56.

育児をしている時に、子供の成長を「待っている」かと聞かれたら、それは待っていないわけではないのですが、かといって、意識的に待っているわけではない。あえて言えばそんな感覚を持ちます。

待つという言葉が仮に何か明確な結果を期待するものなのだとすれば、確かに著者が言うように、無意識的にやんわりと期待はしているけれども、明確には期待せずに、見守っている気がします。

さらに、息子の母への想いを綴った描写が、そのイメージをより鮮明にしてくれました。

息子は、あがきながらじぶんの存在に〈意味〉を探しあぐねている。彼にわからないのは、みずからの行為の〈意味〉を問うことなく、〈意味〉の外で、というより〈意味〉が降り落ちてこないような場所で、「取るに足りない」行為を日々反復していて狂わない母親の存在である。・・・(中略:斉藤)・・・母親は仕方なくまつ。待つよりしようがないとおもう。・・・(中略:斉藤)・・・自分が待っているということ、そのことをまず自分が忘れなければならない。自壊を拒む方法はそれしかない。待つことを忘れ、「時を細かく刻んで」、小さな小さなことにかまけていなければならない。それは、じぶんがこれまでずっとやってきたことだ。ささやかな、ささやかな、待つこととは無関係な小さなことども、それが思わず家族を小さく動かしたことがあったのではないか。・・・(中略:斉藤)・・・いやいや、そんなことすら考えないで、小さな小さな出来事にかまけていること。埋没すること。あとはきっと、きっと時間がなんとかしてくれる。それまで時間をしのぐこと、しのごうとしていることも忘れてしのぐこと。たぶんそれしわたしにはできない・・・。

pp.61-63.

この描写の意味を理解できたわけではなく、(私の経験では理解しえない)全ての家事育児を抱え込む母親の苦悩が内在しているように思われました。
ただ、俯瞰して捉えると、根本的な解決や改善を図れずとも、その場のささやかなことに喜び、多くの苦難を忘れ、気を紛らわして、そうやって膨大な作業や積み重ねを過ごしている場面はあり得るような気がします。

全ての積み重ねや作業の意味を意識してしまうと、狂ってしまうからこそ、忘れる。でも同時にこれも何かを待っていないわけではない。

私たちは、時として、目的と結果を関連付けてとらえようとしたり、何かの行為に対して結果を求めるような発想を抱きがちな気もしますが、意味を求めない生き方、意味を求めることを放棄する生き方・捉え方の可能性を感じます。

ここでわたしたちに突き付けられているのは、おそらく次の二つの問題だろう。ひとつは、未来にあるなんらかの目的に向けてのプロセスとして位置付ける以外に、現在の行為を意味づける算段はあり得ないのかという段階であり、さらにさかのぼって、いまひとつは、そもそもそのつどの行為に意味を求めることじたいを放棄するような生き方はあり得ないのかという問題である。

p.183.

目的―結果、行為―結果の発想は、合理主義的にも感じられ、効率主義、即物主義的な側面もないわけではない(もちろんそれだけではないポジティブな要素もありつつも)。そういった視点では見えない、目的や結果を超えた生き方や発想があるのではないかとも感じました。

待つこと自体を待つという生き方は、将来にやんわりと期待をし、楽観的にあったり、心のどこかで物事がきっとうまく行くであろうと祈る、みたいな発想と近いようにも思いました。(「祈り」という表現が本書でも出ていました。)

人生楽なことではないけれど、私たちは多かれ少なかれ、そういう物事がうまく行くことを期待して、待ちながら生きている。

この話は、教育における評価の問題とも密接にかかわるのだろうとも感じます。期待していたり、待っているのは事実だけど、それを言葉にすると何か違ってしまうような。そういう「待つ」がある気がします。

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