
軽い気持ちで手に取った本だったのですが、思った以上にマニアックで、それゆえに分野・対象への情熱も伝わってくる本でした。
本書にとって「ゲーム」が最も重要な概念・対象ですが、関連する重要な概念として「遊び」が何度も出てきて、漠然と捉えていた「遊び」の概念を再度考え直せる魅力が本書にあるような気がしました。結果として、遊び論からゲームを批判的に考察している内容にもなっているように理解しました。
そもそも、遊びは複数の定義があり、多義的で時として矛盾するような使われ方をすると指摘されています。
「遊びは様々な視点から捉えられている。人間の遊びの成立条件としてしばしば挙げられるのは、遊ぶ者による自由な参加、あるいは遊びを自ら管理すること、独自のルールを通じて「外部」あるいは日常から距離をとった独自の意味付けを持つ空間であることであろう。さらに、様々な理論化によって、「遊びの範囲を超えた物理的な影響のなさ」(ホイジンガ2019[1938])、「生産性のなさ」(カイヨワ1990[1958]」)、「近代的社会のあらゆる側面を支配するテロス(目的性)を無視する」(Fink 1957)、「自己目的的」(Sicarr 2014, 16)という点が広く言われる。行為としての遊びにおいてルールが提供する枠組みに従って遊ぶことと、それから逸脱を図って遊ぶことが可能であるとされている。これらの抽象的かつ多様な方向付けが「遊び」という一つの言葉に統合されたことから、遊びは捉え難い、あるいはアンビバレントな概念として論じられることが多い。」(p.61.)
だからこそ、ゲームや遊びの中には、幾つかの要素の緊張関係や葛藤がある。
「フィクションとルールの間の緊張を孕んだインタラクションこそが、ビデオゲームの魅力の源泉なのだ」(p36.)という指摘がありますが、遊びの中でのルールや人工的・設計的な側面と、当事者の没入感や無目的性などの関係をどう捉えるかなどは、考えさせられる論点ではありました。
あと、そういう風に原理的に考えた際に、私たちの身の回りにあるゲームをどこまで遊びと言えるのか。この論点も面白かったです。
「上記のような遊びは、遊びやゲームのゴールを追求する行為では成立しない。したがって、ゲームが遊びをもたらすかどうかは、いかにゲームの遊びをもたらすかどうかは、以下にゲームのゴールを無視して「エロティックに」遊べるかにかかっている。・・・重要なのは、計算された方向性や期待される結果の不在である。遊びをこのように捉えることで、事故や環境の探求を目的として遊びを想定しエチルボゴストやヘンリックスとも違って、むしろホイジンガがそうしたように、ある文脈における遊びのあり方を通じて、その文脈を考察できるようになる。現代的な遊びと見なされているデジタルゲームは、この意味での遊びをどのように提供するだろうか。」pp.63-64.
様々なビジネスがゲーミフィケーション化されていき、ある意味で、「遊ばされている」ような状況に陥ることも身近に起こりうるわけで、それは本来的「遊んでいる」といえるのか。もはやシステムやルール、テクノロジーに踊らされているだけなのか。新しい営みが生まれていると言えるのか。などなど、思考が触発されます。(これは、デジタルゲーム時代の「ソーシャル」をどう捉えるか、という話とも関連するのだと思います。)
一方で、「日本におけるゲーム批評の歴史」(p.210.)で示されているように、日本社会自体がゲームの文化的価値や意義を十分に認めてこなかったのではないかという問題提起も、自分自身に刺さるものがありました。
あと、個人的に、以下の数点が印象に残りました。
・ゲームや遊びの形式が、該当社会が扱える物理的、技術的制約によって変化するという話(例:その遊具を作りやすいか否か、綱引きの綱を編みやすい地域か否かなど。)。(pp.96-97.)
・ブライアン・サットン=スミスが述べているとされる、ピアジェのような認知発達過程に着目した議論が「大人の遊び」についての説得力に限界があるとする点。(pp.161-162.)
・観光システムそのものがゲーム的になっていて、ツーリズム(観光、旅行)とゲームが、実は深いつながりがあるという点。(p.196.)