
「ポリコレ」といった場合、私の感覚では、今だとやや冷笑的に使われることが多いのではないか。最近ポリコレがうるさくて色々とテレビが面白くなくなったよね、のように。
しかし、この本を読んだときに、ポリコレへの社会のリアクション自体が、非常に大きく根本的な問題性を浮き彫りにしていることが見えてくるようにも思えた。
第一に、差別が、気持ちや人格の問題ではなく、構造の問題であるという点は本書で強調されている。
「『不快な思いをさせてしまった』という常套句は、日本社会の(日常の)中に差別概念が定着していない、ということを反映しているのではなかと思います。」(p.3.)
「『あなたの気持ち』とか『寛容』とか、どうでもいいです」と言っています。『あなたの気持ちなんかどうでもいい。正しい知識を学ぶ方が大事です』と。」(p.67.)
「マイノリティ側としては別に『ごめんなさい』と言ってほしいわけじゃないし、個人に謝罪されても意味がない。『いまこの構造があるけれども、どうしましょうか』という方向で話を進めたいのに、個人的な『ごめんなさい』『申し訳ない』に付き合わされる。」(pp.166-167.)
など。
ここでもあるように、「構造に目を向けてほしい」という意識は強く見られた。
『間違えてもいいのだ』というゆるさ」「構造の問題だからこそ、個人に全く責任が無いとは言わないけれど、そこを切り分けることで。」(p.169.)
「謝罪をするにしても、自分や誰かの内面の問題に帰責させて行うのではなく、構造的な問題に対して認識が足りていなかった、というかたちで行うべきだ、と。」「そうです、そうです。」(p.170.)
こういう意味では、何かトラブルが起きた際に、ただただ謝罪するやり方は違うよねという話になるのだろう。なぜそもそもその問題が起きたのか、社会はどうあるべきなのかを考える仲間となっていくことが、ある意味での反省や再出発のあり方なのかもしれない。
二点目として、一点目とも関連するが、当事者に「寄り添う」とは何を意味して、それはそもそも必要なのか?という点がかなり詳しく論じられている。
例えば、マイノリティに対して、マジョリティの側は、「寄り添う」んじゃなくて「制度を作る」とか「法律を作る」とかそういうことが本来は重要なのに、気持ちの問題が強調されてしまうことへの違和感。(p.74.)
「それは差別的な発言になりますよね」という指摘が、個人の資質のような問題になってしまう。「構造的に不均等な権力配分や不利益に個別の発言や行動がどのように影響するのかが問題なのだ、といういわば基本の部分が、意外に共有されていない。」p.10.
これらの話は、まさに、「議論の開始地点を『差別はない』から『誰でも差別をしうる』に変えていく。」(p.12.)という話と繋がる。
第4章で「障がい者」「障害者」の表記に関して、「そもそも『害』という文字に対して『不快感』を抱いているのは誰なのだろうか」という問いから、「障がい者」の表記を好ましいとする考え方が、「基本的に障がいの『個人モデル』に基づいているからである」(pp.125-126.)という話はハッとさせられる点であった。
第6章に出てくる「ネガティブなPC(PCによる批判・抑制)」と「ポジティブなPC(PCによる奨励・代案提示)」および、「法律・条例による禁止・整理」の三アプローチの話(p.187.)がとても分かりやすく思える。ポリティカルコレクトネスといった場合に、「これは絶対言っちゃだめ」というネガティブなPCもある一方で、社会構造を踏まえたり、付加価値的にこう考えたいよね、という緩やかでポジティブなPCもあるということだと理解した。特に、このネガティブ・ポジティブなPCが、「社会の『重石』を超えた『セーフティネット』だからだ」(p.210.)という表現が、PCを一層イメージしやすくしてくれる。
併せて、「差別の四つの水準」の見取り図としての「序列化(見下し)」「差異化(遠ざけ)」「同化(無視)」「美化・同情(特別視)」の図(p.192.)も明快で、それぞれの差別が関連していることを実感できる優れた枠組みのように思える。
「差別表現の問題史」の項目において、「差別表現、差別語の是正を活動の中心に据え、もっとも鋭い姿勢でたたかってきたのは、部落解放連盟だ。」(p.202.)に続く一連の日本近代史の話も、PCを外来語として受動的にのみ捉えないために改めて押さえておきたい。