『「発達障害」とされる外国人の子どもたち』を読了。 日本の学校に通う外国人生徒が「発達障害」と疑われ、発達検査を経て「発達障害」と認定され、特別支援学校に進学する経緯を詳細に分析。
印象に残るのは、「善意と温情」の言葉に象徴され、生徒本人の人生を思うがゆえに、発達障害の認定や、特別支援学校へと子どもを誘う中学校教師たちの姿。発達障害の真偽よりも、社会の現状(外国人児童が日本の学校システムで経験する困難さ)や子どもたちの将来を思い、「善意と温情」に基づいて、特別支援学校に行ける道を開こうとする教師たちの姿が、問題の複雑さを鮮明化させる。
本書後半では、外国人児童生徒の状況を、心理学化、医療対象化していくことの問題点を詳述。その問題点は、マクロな社会構造の問題点(≒「包括的な移民統合政策」不在の日本人のための学校教育システム)を見えなくしてしまう点にあった。さらにその根本問題を問わずに、そのシステムに乗った上での温情策を教育現場がとることを、本書は「社会との共犯関係を強化している」と厳しく指摘。その他、外国人児童を巡り複数の困難が重層的に襲い掛かる様子(単に言語の問題だけではない)が伝わってくるし、日本にやってきた経緯の文脈理解なしには、外国人児童生徒の問題を語れないと再認識させられた。
とはいえ、この種の社会モデルと医療対象化の議論は、「じゃあ、あの時の私はどうすればよかったんですか?」という問いにパッと答えてくれない。学校や社会の社会システムを変えることは簡単ではないから。だからこそ、関係者との対話の仕方や、戦略的な社会変革への展望が大切になりそうだと感じた。