目次は以下の通りです。
第1章 コミュニケーション能力とは何か?
第2章 喋らないという表現
第3章 ランダムをプログラミングする
第4章 冗長率を操作する
第5章 「対話」の言葉を作る
第6章 コンテクストの「ずれ」
第7章 コミュニケーションデザインという視点
第8章 協調性から社交性へ
コミュニケーション能力なるものは存在するのか、という問いを考えさせてくれる本。
コミュニケーション能力という語は、「コミュ力」という俗語で世間でも語られますし、民間就職等の採用試験でも、重要視されています。この曖昧とした力を考察するのが本書の目的です。
論点は多様なのですが、本書が言わんとするのは、
コミュニケーションというのは「相手と心の底からは分かり合えない」ということを前提にして、(不自然でない形で)演じ、役割を使い分けていくことである、ということかと理解しました。
この発想が、同時に、「コミュニケーション教育は、人格教育ではない。」p.150という考えとセットで語られています。
日本が「察し合う文化」だとすれば、グローバル社会で求められているのは「説明し合う文化」p.100.である。ただ、これは単純に同化するべきという話ではないし、同化できるわけもない。
あくまで自分の人格を変えようとするわけではなく、役割を使い分けられる程度に、他の文脈(国や地域、文化)を持つ人とコミュニケーションできる様式を複数持っておくこと、が重要である。
その時に、「演劇」や「演じる」ことの持つポテンシャルはとても大きい。そういうことなのかと思います。
私たち演劇人は、ごく短い時間の中で、表面的ではあるかもしれないが、他社とコンテクストを擦り合わせ、イメージを共有することができる。そこに演劇の本質がある。そして、このノウハウ、このスキルは、これからのエンパシー型の教育に大きな力を発揮するだろうと私は考えている。ここでいうエンパシーとは、「わかりあえないこと」を前提に、分かり合える部分を探っていく営みと言い換えてもいい。
p.200.
演劇は集団で行う芸術なので、演劇人には「社交性」はあるのだ。私たちは、幕が下りるまではどんな嫌な奴とでも、どうにかして仲良くする。プロの世界などはひどいもので、舞台上では、「あなたがいなければ死んでしまうわ」と言っていても、楽屋に帰ればそっぽを向いている連中もたくさんいる。それでいい舞台ができるのなら、私としてはまったくかまわない。これもまた「社交性」だ。しかしこの社交性という概念は、これまでの日本社会では「上辺だけのつきあい」「表面上の交際」というマイナスなイメージがつきまとった。私たちは、「心から分かりあう関係を作りなさい」「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」と教え育てられてきた。・・・(中略:斉藤)・・・「心からわかりあえなければコミュニケーションではない」という言葉は、耳に心地よいけれど、そこには、心から分かりあう可能性のない人々をあらかじめ排除するシマ国・ムラ社会の論理が働いていないだろうか。
pp.207-208.
人びとは、父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部分として受けれ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。いや、そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまったときに、問題が起こる。ならばまず、主体的に「演じる」子どもたちを作ろう。
p.221.
個人的には、いまの日本の(若者や子どもを含む)人々は、「自分らしく生きなさい」というよりは、自分が誰であるか分からなくなるくらいに、様々な顔を使い分けている、といわれる方がしっくりくる感じはあります。
ただ、そこでいう「様々な顔を使い分けている」というのは、どちらかというと空気を読むような意味での受動的な意味になりがちで、著者が言わんとする「主体的に演じる」とは異なるような気がしました。
演劇の例が出てきて、結果として、求められているコミュニケーションの力の水準高いやないかい!と感じないこともないのですが、
人格を変える必要はないという話とか、「慣れ」というレベルで良いとか、ハードルを下げようとする指摘も複数なされており、その塩梅がやや読み切れないところではありました。
演劇的なコミュニケーションが日本人(という括りが良いのかは別ですが)にとって非日常だから、一見難しそうに感じるということなのか。もしくは、実は私たちが当たり前のようにしていることだからそれほど難しくない、という話なのか。そこら辺の線引きが難しいところではあります。
ただ自分の立場ごとに置き換えたとき、他者とうまくコミュニケーションがとれないと、自分にそれこそ人格的に(というか人間的に?)問題があるのではないかと感じてしまう・・・というのは感覚的にはよく分かります。
そのような自己嫌悪が仮に「相手とわかり合おうとしすぎている」のだとすれば、それこそ「演じる」ようなイメージで切り替えていく発想を持てれば、心が軽くなるし、結果として対応できる幅も広がりそうな可能性は感じました。
完全に相手を理解しようとすると、排除の論理が生まれる。だからこそ、適度な距離で、相手の文脈や役割を模倣できる想像力を持ち、それでいて分かろうとしきらない。
なんとなく、ある種の遊び心やユーモアさを垣間見ます。
演劇から見るコミュニケーション論の奥深さを感じました。