目次は以下の通りです。
第1章 市民から消費者へ
第2章 アメリカの学校制度の創設
第3章 進歩主義運動による学校制度改変の試み
第4章 改革に対する組織的抵抗
第5章 教室レベルでの改革への抵抗
第6章 社会問題の解決の失敗
第7章 学校での学習の限界
第8章 学校シンドロームと共に生きる
米国教育史を大胆に論じている本です。出版当初にラバレー先生の講演会参加に合わせて読んだことが懐かしい。久しぶりに再読。
社会的に解決しきれない問題を教育に期待を込めて任せたり、教育問題として語っていく米国の様子を通史で感じました。学校に期待しすぎる社会のあり方や教育に処方箋を求める語り方も繰り返されていく様子が実感できます。
本書を読んで、三点が印象に残りました。
一点目
教科教育の研究者としては、本書で一番強烈に印象に個々るのは、「主要教科の学習は学校システムにとっては副次的な効用に過ぎず、学校することこそが主要な効能なのかもしれない。」(p.114.)という指摘です。
学校システムを「レトリック、構造形態、教授実践、生徒の学習」の四つの次元に分けたうえで、管理行政主義改革はまた、レトリックのレベルを突き抜け、学校システムの構造的レベルにも相当な影響を及ぼした」(p.123.)のに対して、「20世紀の前半の子ども中心主義的進歩主義は、構造形態のレベルで学校教育に影響を与えることにはほとんど成功しなかった」(p.127.)という指摘はと繋がってきます。
また、これまで数ある米国教育史上の学校改革の中で、コモンスクール運動だけが大きな影響をもったという本書の指摘は、まさに、「学校することこそが主要な効能」という話と直結する気がしました。
教育史と教科教育史、教育方法史などが交錯する中で、何が言いうるのか、考えさせられます。
第一に明記しておきたいのが、学校はコミュニティ建設に際して有効な存在であったとしても、そのことはカリキュラム内容や授業の性質とは無関係だったことだ。重要なのは、学校がすべての 生徒に対して共通で同一の社会化を行ったということである。かれら全員が学校で同じ教材で教育を受けている限り、かれらが実際に教科の授業から学んでいたことは重要ではなかった。習得の核心は主要教科ではなく文化であった。まさしくこの学校カリキュラムの意味の軽さこそが、この200年間社会は急激に変化していたのにカリキュラムがごく緩慢にしか変化しなかったわけを説明する重要な要因なのである。(子ども中心主義と管理行政)両陣営の進歩主義運動から50年にもわたって加えられた伝統的カリキュラムに対する総攻撃の後でも生徒たちは依然として、数学、理科、国語、歴史という主要教科に勉学の時間の大半を費 やしていた。共和国アメリカを樹立し守るのに寄与してきたのは学校教育の内容ではなく、形式のほうであった。
p.180.
二点目
学校教育改革のカギを握るのは、改革者ではなく、消費者にあるということです。教育の歴史の主役を理論家や実践家にしてしまいがちな自分としては、考えさせられる点が多かったです。同時に、「進歩主義教育運動が影響力をもったのは、消費者の圧力と結合したからである。」(p.113.)という話は、進歩主義運動を教授学的に捉えれるだけでなく、多面的に論じる意義を感じさせられました。
アメリカの学校改革に関する本研究の教訓の一つは、システムの主要な変革を引き起こしたのは教育改革者ではなく教育消費者だったこと、これである。つまり改革者は、消費者が行ってきた運動や努力のうえに彼らの運動を築くようにアドバイスしてやるのがよい。
p.271.
三点目
学校改革の背後にある資格習得としての役割と、それをめぐる競争について。これは先ほどの消費者の話とも繋がっており、現在のレースは大学院に発展しているという話でした。
問題は、一部で既に教育上の優位を手にしている人びとがおり、しかもかれらはその優位を維持する手段ももっているということだった。・・・(中略:斉藤)・・・唯一の現実的なちがいは、今や誰もが以前より高い教育を受けるようになったことだ。19世紀において優位な資格はハイスクール卒業資格だった。 20世紀初め、それはカレッジの学位だった。20世紀後半までにそれは修士・博士号になった。レースは続くのだ。260-261
教育に対する俯瞰的で冷静な(ある意味で冷めた感じの)見方が印象的に残りました。一方で、こういう語り方に惹かれる自分もおり、向き合い方を考えさせられます。
勉強になりました。