感想メモ

【本】ジェラード・ディランディ著:佐藤康行訳(2004)『グローバル時代のシティズンシップ-新しい時代の地平-』日本経済評論社.

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目次は以下の通りです。

第1部 シティズンシップのモデル
 第1章 シティズンシップのリベラルな理論―権利と義務
 第2章 コミュニタリアンのシティズンシップ理論―参加とアイデンティティ
 第3章 政治のラディカルな理論―シティズンシップとデモクラシー
第2部 コスモポリタンな挑戦
 第4章 コスモポリタンなシティズンシップ―国民国家を超えて
 第5章 人権とシティズンシップ―身体化された自己の出現
 第6章 グローバリゼーションと空間の脱領土化―秩序とカオスのあいだ
 第7章 国民国家の転換―ナショナリズム・都市・移動・多文化主義
 第8章 欧州統合とポストナショナリズムなシティズンシップ―脱国民化の四類型
第3部 シティズンシップ再考
 第9章 シティズンシップの再構成―多元的政体におけるポストナショナルな統治
 第10章 結論―市民的コスモポリタニズムの概念

日本でシティズンシップ概念を論じる際に、よく参照される本です。

久しぶりに通読する機会がありました。
ディランディの本は、以前に『コミュニティ―グローバル化の社会理論と変容-』の方も紹介しました。

全体として、権利、地位としてのシティズンシップから、参加やアイデンティティとしてのシティズンシップに、なぜ現代において論点が移りつつあるのか、説明がなされています。その背後には、従来のシティズンシップと国籍の関係性にずれが生じてきたことが影響しています。またこれらの話は、平等原理に基づくシティズンシップから、差異の承認に基づくシティズンシップへの議論の移行の話と繋がっています。

本書は、とりわけグローバリゼーションと新しいコスモポリタンによる挑戦の台頭を受け、シティズンシップと国籍とのあいだのズレが大きくなっている事態を探求したものである。このズレが大きくなった結果、古典的な社会的、政治的理論を再考しなければならなくなった。

p.ⅲ.

ディランディ自身は、ハーバーマスの影響を強く受けつつ、法多元主義の考え方に基づく、コスモポリタンなシティズンシップが重要であると主張しています。ただ、ディランディ自身が「「薄い」 コスモポリタニズム」と述べるように、彼の目指すコスモポリタニズムは、「国家からなる国際機関の共同体の超克を目指すものではなく、政治的共同体の多元的世界を目指すものである。」(p.284)とされています。

わたしはハーバーマスの議論を受けて次のように主張したい。すなわち、ヨーロッパのアイデンティティをヨーロッパ独特のアイデンティティとして理解することができる唯一可能な方法は、彼がポストナショナルなアイデンティティつまり「憲法バトリオティズム」と呼ぶものを用いてヨーロッパのアイデンティティを定義することである。憲法バトリオティズムは、ポストナショナルなアイデンティテ の規範を表しているものとして、民主主義的規範や憲法規範との同一化と関係しており、国家、 領土国民文化的伝統とは関係していない(第3章参照)。憲法パトリオティズムは文化的アイデンティティではなく、むしろ根本的に法的アイデンティティである。

p.225.

わたしはハーバーマスに倣って次のように考えている。すなわち、ヨーロッパのアイデンティティ――それ自体でアイデンティティと考えられるが――は、文化的伝統に根ざした具体的なアイデンティティではなく、討議によって媒介された原理にかかわることに焦点があてられている多元的なアイデンティティ――ヨーロッパ人であると同時にひとつのコミュニティの成員つまり国民でもありうる――を表現したものである。この視点からものごとをとらえるならば、ナショナルなシティズンシップとヨーロッパのシティズンシップとのあいだにトレードオフという深刻な関係はない。

pp.226-227.

読んでいて印象に残ったことを数点メモします。

一点目

マーシャルが述べるような社会的権利としてのシティズンシップの議論が、北米の文脈と異なることが示唆されていることです。コミュニティの議論が北米で多いのとセットになった話となっています。

マーシャルの論に対する批判や解釈も多義的ではありますが、どの国を想定したシティズンシップ論なのかという視点は改めて重要だなと感じました。

コミュニティの成員資格についてのこの議論が主として北米で起こったことは、北米で社会的シティズンシップのインパクトがほとんど目立たなかったところであることを考えるとそれほど奇異ではない。国家が社会的権利の獲得に歴史的に貢献しなかったところでは、シティズンシップの議論はコミュニティの成員資格の用語で語られる傾向にあった。

p.49.

二点目

グローバル時代になったからといって、シティズンシップの議論において、国家との関係がなくなったわけではないという点。これは、様々な捉え方がありうると思うのですが、シティズンシップがある程度国家に根づく必要性もあることを示唆させているように感じました。ともすると、旧共産圏の話もそうですし、旧植民地国での様々な葛藤もあると思います。どの国のどの状況を指して論じているのかという点が重要だとは改めて感じました。

脱共産主義世界にあっては、問題を抱えている場所では特に、国家と市民社会が民主主義の精神と資本主義とをシティズンシップの制度を用いて繋ぎとめることに失敗し、ナショナリズムに力強いはずみを付ける結果になったということを主張したい。国家がシティズンシップを根づかせることなく、また資本主義を手懐けるに十分な権力を握っていないばあいには、民主主義と資本主義の二重の力が数多くの社会転換の方向性を形成することになったのである。

p.181.

関連して印象に残ったのは、「シティズンシップと国籍とが切り離された結果、シティズンシップと民主主義とはもはや直接的に関係しなくなった。」(p.261.)という指摘です。シティズンシップは国家の統一した枠組みによって決めることができなくなり、権利義務、アイデンティティ、参加がばらばらに切りされた結果として、共同体における参加という意味でのシティズンシップの考え方が中心となってきた。そして、民主主義は手続き上の問題ではなくなっていった。そうすることによって制度システムや政治体系としての拠り所が弱くなっていることの問題点を指摘しているように感じました。この話は先ほどの国家とシティズンシップの議論とも繋がってくるように思います。国家とのつなぎ目が無くなったときに、「私生活中心主義に後退する」という表現はとても印象に残ります。

多元主義の危機にあって、また立憲主義が明らかに意味を失った状況下にあって、民主主義の制度システムのほとんどがますますかみ合わなくなっている。そしてそれにともなって、シティズンシップが第一義的な正統性を喪失している。民主主義的な政治体系を欠くならば、シティズンシップの意味が喪失してしまう。シティズンシップはたんなる社会の成員資格ではなく、社会と国家をつなぐ市民の世界である市民社会の成員資格である。このつながりが切れたとき、シティズンシップは私生活中心主義に後退する。他方、シティズンシップがこの根を失ったとき、民主主義はコミュニタリアンがいうアイデンティティとコミュニティにますます閉じこもる。

p.261.

三点目

国内政治の問題と国際政治の問題が絡み合うさまが感じられる点です。

特に、集合的権利とトランスナリョナリゼーション、EUの文脈で本書では論じられており、国際法に大きな影響を受けて国内法がつくられている様子が論じられています。これらの議論は、国際NGOの存在や、法多元主義、先住民の持つ集団的権利の話とも関連していきます。(pp.152-153.)

私としては、先日読んだ『平和主義とは何か―政治哲学で考える戦争と平和―』の「民主的平和主義」の考えとの接点を感じました。
国際的な法、運動が国内に影響を与えるのと同時に、逆もまたあるのだと共います。そういった多元的な法やネットワークの関わりを想像する力が問われるようにも思いました。

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