感想メモ

【本】齋藤純一(2000)『公共性』岩波書店.

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目次は以下の通りです。

はじめに
Ⅰ 公共性──その理念/現実
 第 1 章 「公共性」の位置
 第 2 章 公共性と排除
Ⅱ 公共性の再定義
 第 1 章 市民社会と公共性
 第 2 章 複数性と公共性
 第 3 章 生命の保障をめぐる公共性
 第 4 章 親密圏/公共圏
 終章 自己と公共性──生/生命の複数の位相と公共性の複数の次元

公共性の概念について考察した本です。
久しぶりの再読です。

本書における公共性とは何かと考えた時に、私としては、功利主義的な尺度で捉えないことと、個人のアイデンティティや価値、そして他者との関係性の中に複数のあり方が存在すること(同質的なひとつではないこと)、が挙げられるように感じました。

役に立つかどうかという「功利主義」的な尺度で測るかぎり、この世界は「余計者」で溢れている。有用か無用か、有能か無能か、人間を測るこの判断規準は,生きるに値するか否かという尺度と紙一重のものである。・・・(中略:斉藤)・・・それは、 少なくとも、あなたの自由のための場所ではない。アーレントがその関心を集中するのは、あくまでも自由のための誰もが「行為への権利」(the right to action)、 「意見への権利」 (the right to opinion) を奪われない政治的な自由のための場所である。

p.ⅵ.

自己は、それ自体複数のアイデンティティ、複数の価値の(間の空間)であり、この空間には常に何らかの葛藤がある。自己が複数のモノであり、その間に抗争があるということは、自己が断片化しているということを意味しない。葛藤があり抗争があるということは、複数の異質な(場合によっては相対立する)アイデンティティや価値が互いに関係づけられていることを意味する。

p.102.


印象に残った点をメモ。

一点目。
公共性の概念は日本において変容してきた点についても述べられています。

・公共性概念が肯定的な意味でしかも活発に用いられるようになったのが1990年頃だった。
・この言葉が肯定的な意味合いを獲得するようになったコンテクストの一つは、国家が「公共性」を独占する事態への批判的認識の拡がりがあった。
・当時は、一方では、ボラン ティア団体、NPO (非営利組織) NGO (非政府組織)など市民によ って自発的に形成されるアソシエーションにも注目が集まるように市民社会の独自の意義が強調された。
・他方で、「公共性」をナショナリズムによって再び定義しようとする思潮であるもあった。(pp.1-3.)

二点目。
公共性からの排除が起こる問題の一つとして、「言説の資源」の論点があります。マジョリティによって構成される公共空間において、マイノリティは様々な点で言説を表現するための資源が不足している。この点がとてもよく分かりやすく説明されている気がしました。同時に、フレイザーの「対抗的公共圏」の意義などが、日ごろの自主的な研究会運営と少しだけ重なる点もあり、理解が深まりまった気もします。

公共性からのインフォーマルな排除の問題である。特に注目したいのは「言説の資源」(discursive resources)という目に見えない資源が公共性へのアクセスをいかに非対称的なものにしているかという点である。公共的空間へのアクセスを大きく左右するものとして自由時間という資源がある、生活の必要から解放され、自由時間を得ることが「政治的な生」を生きるための条件であることは古代ギリシアまで遡る認識だが、いまや「時間の貧困」(time-poverty) は物質的貧困に脅かされない人びとにとっても切実な問題となっている。たとえば、仕事と家事の 「二重負担」は、公共的空間にアピールすべき問題を抱えている人びとが、 自由時間という資源の欠如ゆえにそれに十分にアクセスできずにいるという悪循環の典型を示している。

pp.9-10.

「言説の資源」という点で劣位にあるマイノリティにとっては、そうした限界に挑むうえで、自分たち自身の言説の空間を創出することが有効である。 公共的空間において一般に私事と見なされている事柄は、この空間では共通の関心事として取り上げられる。 アテンションの配分=配置は再編され、これまでマジョリティによって無視され、 黙殺されてきた事柄に焦点があてられる。・・・(中略;斉藤)・・・この公共圏では、支配的な公共圏とは相対的に異なった「言説の資源」が形成される。

p.14.

三点目。
親密圏の意義を再認識することができました。
公共圏と親密圏を対比的に捉えた時、時として親密圏の繋がりが否定的に捉えられがちであることを踏まえつつ、公共圏と親密圏の関係性について、再度捉えなおしているように思いました。
この点についても、自主的な読書会、研究会などから派生した社会運動が少なからずあることなどが頭に浮かびました。

親密圏における人‐間の複数性は、公共的=政治的領域の「無限の複数性」には達し得ないという見方は確かに間違いではない。親密研に成立する対話は、抗争を欠き、したがって政治性を欠くかもしれない。それは、距離を失って「あらゆる差異を払拭するような同胞愛の過度の近しさ」に陥るかもしれない。親密圏の対話は、外から眺めれば、内閉した均質なコミュニケーションとしてしかうつらないかもしれない。親密研の複数性はたしかに脆弱である。しかしながら、こうしたとらえ方に対して、人びとははたして「無限の複数性」によって特徴づけられる公共的空間に何の媒介もなく関わりうるだろうか。あるいは、親密圏の対話は本当に政治と無縁だろうか、それが政治的な権力(アーレントの言う意味での、「共同の協議」から派生する力)を生み出すことはないのだろうか、と反問することができる。

pp.91-92.

セルフヘルプ・グループに触れて述べたように、親密圏は同時に公共圏の機能をはたすこともある。というよりもむしろ、新たに創出される公共圏のほとんどは親密圏が転化する形で生まれるといった方がより正確だろう。たとえば、90年代後半から各地で直接デモクラシーの実践が起こっているが、それらの多くは住民の間の「対話の親密性」から発したものである。・・・(中略:斉藤)・・・新しい価値判断を公共的空間に投げかける問題提起は、マジョリティとは異なった価値観(生命観・自然館・人間観)を維持・再形成してきた親密圏から生じることが多い。

pp.95-96.

勉強になりました。

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