目次は以下の通りです。
第1部 中世の大学から、アンシアン・レジームの大学まで(中世における大学の誕生とその躍進;大学と中世文化;近代の大学、権力、社会(十六~十八世紀)近代における大学の危機と改革)
第2部 大革命以後(第一の革新―学問か、それとも職業か(一七八〇年頃~一八六〇年頃)
第二の変革―研究か、それとも社会的開放か(一八六〇~一九四〇年))
総決算―一九四五年以降のあらたな大学の世界へ
中世から1945年頃までの大学の歴史を描いた本です。
大学の定義について以下のように述べられています。
大学という言葉に比較的明確な意味を与えるとすれば、それはつぎの ようになる。すなわち「大学とは、教師と学生が連帯して生み出していく(多少なりとも) 自律的な共同体であり、 そこでは高い水準で行なわれる」。こうした意味において大学をとらえるならば、大学という制度は西欧文明に固有の産物だといえるのであり、そのような大学が誕生したのは十三世紀初頭のイタリア、フランス、イギリスにおいてである。
pp.7-8.
このような歴史的アプローチを用いる背景には、世界の大学ランキングに代表されるような一元的な基準での評価に対する抵抗や批判があったとされます。
「世界の大学ランキング」は、歴史を考慮しない一元的な基準でいまの大学を評価しようとしている。 それは歴史を無視するというより、むしろ着化させるものである(ランキングの上位にはたいてい有力な国の伝統ある大学が並んでいる)。 歴史はわれわれが創ってゆくものであるということを、ランキングは忘 れさせようとする。本書は、そのような思想(そう呼ぶべきものがあるとして)によってもたらされた「グローバリゼーション」と、そのなかで幅をきかせるネオリベラリズムへの「レジスタンス」としてフラ ンスにおいて出版されたものであり、日本においてもそのようなものとして機能する。
pp.160-161.
いくつか印象に残ったところをメモします。
大学史については不勉強な点が多く、色々と発見が多かったです。
例えば、
・12世紀にアラビア諸国との交流の中で、典拠として活用可能な(古代ギリシア・ローマにつながる)テクストが増大する中で、古文書の復権をはじめ、知識量が増大し、学校出身者の彼らの学識が、それ以前の世代の学識を凌駕したこと。それによって、学校関係者の信頼性が高まったこと。(p.16.)
・中世に入り、大学数は増加してきても、政治、経済の中心地であったロンドン、 アムステルダム、アントワープ、ブリュッセル、ルーアン、リョン、マドリード、ミラノ、ベルリン、 サンクトペテルブルグのような大都市においてはいまだ大学は存在しなかったこと。その背景として、そうした都市の政府やブルジョワ階級のエリートが、大学に対して警戒心を抱いていたこと。(p.53)
・貴族の学生が、しばしば学位を取得しようともしなかったこと。(そもそも、最初は大学に通おうとする貴族階級が少なかった。)ある意味で、ブルジョワ出身の学生は、貴族的な生活スタイルに魅了されるようになったこと。(p.69)
・ロシアにおいて、小ブルジョワジー、中流階級、あるいはユダヤ系の若者が高等教育への進学を試みるようになり、政治がそれを妨げようとすると、らは大挙して留学し、外国で修了証書を獲得しようとしたこと。(p.150.)
大学のルーツとして、「学生の自律的な団体を組織する」ことが重要なポイントして指摘されていました。
以下、引用します。
とはいえ、その法律学校はいまだ個人でいとなまれる私立学校のままだった。つまり、教師の周囲に集う小規模な「結社」だったのである。事態が決定的に変化しはじめるのは1190年頃からである。学生たちは権威ある教師のもとに集うことをやめ、出身地ごとに集結し「ナチオ(ホーション=同郷会)」と呼ばれるグループを形成するようになる(イングランド、ドイツ、ブロヴァンス、ロンバルディア、トスカナなど)。 教師は自分たちの属する自治都市に対して服従を誓うことを受け入れていたが、学生は自分たちで自律的な団体を組織する。団体を結成することを通じて、土地の住民が彼らに加えようとする書から身を守り、学生同士の対立を解決し、教師たちと契約をかわす。つまり、学生自身が必要としている教育を彼ら自身で組織したのである。この学生たちの「ナチオ」は次第に「大学(ウニヴェルシタス同業組合)」としてたがいに結集するようになる。
pp.17-18.
上記と関連して、
大学組織が、国家や権力者側との対立や闘争の中にいたことを改めて感じました。
例えば
・フランスにおいても、「大学を効率の悪い機関とみなし、大学から完全に独立した高等教育機関を創設しようと動きはじめ」る結果として、王立の機関とパリ大学が対立していくプロセス(pp. 86-87.)や、自治的な大学と国家による研究機関の位置づけ。
・政府から学生は政治的な運動を起こす巣窟としてみなされていた点。多くの学生は1848年の王政復古や1830年の七月革命、そしてルイ=フィリップの七月王政のときにめざましく動き、パリはヨーロッパの学生運動のモデルとみなされるようになること。教師も同様に、運動に身を投じたこと。(p.102.)
また、大学の学生が自由な選択を任せるカリキュラムの仕組みに対して、当初のアメリカでも批判があったこと。ただ結果として、大学の存続に大きく貢献したことなどが面白かったです。
学生の自由な選択に任せられた教科の柔軟な組み合わせは、ヨーロッパで学んだアブラハム・フレクスナーのような教育学者からは批判され、本来の大学教育への裏切りとみなされた。じっさいには、その柔軟さがきわめて多様な学生の共存を許し、大学の存続に役立つことにもなった。 それは技術教育や専門教育と教養教育や学問を結びつけ、大学に顧客および多様な財政支援を引きつけて、企業家のごとき学長の権威主義的なのもと、大学が繁栄するのを許したのである。 大学の管理者たちに大きな権限が与えられていたこと、国家による介入の少なさ、そしてヨーロッパ・レヴェルに達しようとする努力にもかかわらず従属的な地位に甘んじていた大学人の存在が、ドイツのものでもフランスのものでもない「アメリカの大学モデル」を形成していた。
p.121.
この背後には高等教育の大衆化があったわけですが、そういった問題は、ドイツのフンボルト型の大学の理想に対して、根深い論争を起こすことになりました。それは当初のフンボルト型の大学の理想自体が、特定の階層の学生を想定していたことが関係したともされます。ここら辺の話は現代とも通底する論点になってきそうに思います。
フンボルトの大学の理想は、上級ブルジョワジーあるいは貴族階級の卓越した人間を養成しようとするものだった。しかし、学問よりも就職のために大学に来る若者 (二十世紀初頭からそこに女子も加わる) が多くなり、しかもその一部が古典的ではない中等教育、したがって人文主義的な理想を踏まえない教育しか受けていないということになると、大学における教育は、実践、実用主義、そして専門化の方向に向かわざるをえなくなる。諸邦はドイツ統一ののちも大学を管理していたけれども、そのような傾向を少しずつ受け入れて、工業社会のあらたな需要に応える大学や学科を求めるようになる。学問分野に関しても、政府は経済と結びついた研究を受外国からの留学生を積極的に 受け入れて、ドイツの影響を世界に広げようとした。しかし、大学がこのようなあらたな役割を担うことは、かつてのドイツの大学の間に付すこと以外のなにものでもなかった。
p.136.
著者は、最後に現在の大学のあり方に疑問を呈し、大学のルーツや成立期に再度目を向けるべきと指摘します。パリで誕生した学生や教員による自律的な組織としての大学のあり方を重視しているのだと理解しました。
じっさいヨーロッパの大学を構想するには、パリに「大学」ができたころの厳しい規律をとり戻すこと、近代の大学が手に入れた諸価値を見失わないことが大切なのである。さもなければ、ヨーロッパ は「たんなる自由貿易のための交易圏」となってしまうだろう。・・・(中略:斉藤)・・・中世のころの大学人の精神がパリにはいまでも生きているとい うことを、それは端的に主張しているのである。
p.164.
大学という組織の社会における位置づけが変化している様子がよく分かる本だと思います。