感想メモ

【本】大屋雄裕(2007)『自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅』ちくま新書.

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目次は以下の通りです。

第1章 規則と自由(「個人」の自己決定と法・政治;自由への障害;二つの自由―バーリンの自由論;交錯する自由)
第2章 監視と自由(見ることの権力;強化される監視;ヨハネスブルク・自衛・監視;監視と統計と先取り;監視・配慮・権力;「配慮」の意味;衝突する人権?;事前の規制・事後の規制;規制手段とその特質)
第3章 責任と自由(刑法における責任と自由;自己決定のメカニズム;責任のための闘争―刑法四〇条削除問題;主体と責任)

現代社会において、個人が自律的に判断や意思決定できるかを問うた本だと感じました。

著書では以下のように述べられています。

本書の目的は、「自由な個人」すなわち我々の法・政治・社会システムの前提となっている近代的自我のあり方と価値をもう一度問い直すことにある。             

p.8.

犯罪を未然に防ぐ監視システム、Amazonをはじめとする個人の選好を確率的に処理し誘導するシステムなど、私たちの周りにはある種の効率性や快適さを伴いながら、私たちの行動や選択を規制する仕組みが増えています。

こういった問題に対して、本書は、「自由」とそれを行使する「個人」とはどのような存在かという視点から検討することを試みているように感じました。

印象に残った点をいくつかメモ。

第一に、自由論についての整理が行われています。

国家、共同体、市場の各特性を考察しながら、個人が例えば国家から完全に独立(国家を拒絶)すればよいというわけではないと指摘されている点が印象に残ります。
また、井上氏の論を踏まえつつ、バーリンの積極的自由と消極的自由の二分法的な理解の限界についても言及しています。

第二に、「やわらかい支配」について、事例豊富に語られています。

ヨハネスブルクの「キューインシデント」の例などは象徴的でした。キューインシデントは、カメラによる監視と警察への情報提供のみを行う組織活動のことです。

「キューインシデント」の活動が2000年4月に始まる前、ヨハネスブルク市中心部で月に1500件起きていた犯罪は、たった9か月で月300件へと減少した。「校外に逃げていた企業が戻ってきた。がらがらだった50階建てビジネスビル「カールトン・センター」は満室になった」。

p.92.

また、パノプティコン的分類としてのアマゾンのお勧め機能についても、「情報技術の発展によって顧客が個別化され、個々人の消費履歴・購入傾向を分析することが可能となったとき、顧客への対応もまた効率化を求めて個別化されるだろう。それこそが「パノプティコン的分類」だ。」(p. 109.)と述べています。

その上で、確率的・効率的な支配を「確率的な支配・やわらかい支配」(p.113.)と呼び、その支配の背後にある善意の側面についても指摘しています。

監視カメラや航空機のセキュリティチェックにしても同様である。確かに我々はそこで監視の対象となるが、それが目的としているのは我々自身の安全であり、それによって可能になる将来の我々自身の自由である。だからこそそれらの技術は我々に快適な結果をもたらすし、我々自身もそれを受け入れることができる。監視の背後に人々を幸福にしたいという信念や善意があることは、多くの場合に事実なのだ。

p.125.

では、個人はこの問題と向き合うべきなのか。
その本書の答えの一部が、「事後に責任を追及する制度の存在」を残すこと、さらには「発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受ける」ことなどが挙げられるように感じました。

それらの答えが意味することについて、例えば、監視システムやAmazonのおすすめ機能などの文脈でどうすべきかを理解しきれていないのですが、おそらくすべてをシステムに委ねすぎず、自分の判断の余地を残すことにかかわりがあるのかなと想像しました。

刑罰をめぐる論争が秘めていたものは、前章で指摘した事前規制と事後規制の対立、予めリスクを排除していくシステムと、個人の行為のあとでその責任を追及していく制度の対立であったというのが、私の考えである。そしてリスクの徹底した排除が我々の主体性を失わせ、確率的な操作を加えられる対象に還元していくこと、そこにおいて自由や自律と言ったものが存在する余地が失われていくことが、ここで再度示されている。逆に言えば、事後に責任を追及する制度の存在によって、われわれの自由とそれを担う人格の存在が支えられているということを意味しているだろう。             

p.168.

我々は自分自身の行為すら完全に意識して自己決定下に置いているわけではないし、ましてその帰結ともなれば予想外の事態が多く生じることになる。だがそれでも、発生してしまった帰結を自分の選択の結果として引き受けるとき、行為者は偶発的・確率的に行為に追いやられた客体としてではなく、積極的に自由な選択をした主体として立ち現れるのだ。

pp.191-192.

現代社会の監視システムは、私たちにとっても身近かつ、切り離せない問題ですし、非常に考えさせられました。

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