読書メモ

【本】細見和之(1999)『アイデンティティ/他者性』岩波書店.

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目次は以下の通りです。

1 アイデンティティの諸相
2 記憶という他者,言語という他者
 第1章 引き裂かれたアイデンティティ──プリーモ・レーヴィをめぐって──
 第2章 投壜通信のゆくえ──パウル・ツェランとプリーモ・レーヴィ──
 第3章 他者の言語を生きるということ──金時鐘をめぐって──
3 基本文献案内
あとがき

アイデンティティの系譜に関する議論を、主に文学と言語に視点を当てながら、再解釈し位置づけようとしている本だと感じました。

本書の冒頭から「まず、フロイトからエリクソンにいたる自我論、アイデンティティ論の系譜」が論じられる際に、「アイデンティティ」は青年期に特有の「自我の確立」という問題として考えられがちであると、やや批判的に指摘しています。(p,1.)。その上で、本書の立場として、自己と他者を完全には切り離しえないものであると捉えています。

ぼくはうえのように自己と他者の決定不可能性を基本に置きたいと思っている。それは、言い換えれば、「アイデンティティ」をつねに「他者性」との関わりの中で考えること、あるいは「アイデンティティ」を絶えず他者との境界領域において考えること、もっと言えば、「アイデンティティ」をそういう境界そのものとして考える、ということでもある。アイデンティティと他者性に照らして改めて定義するというよりも、アイデンティティと他者性という問題設定の場そのものに、具体的な表現者の表現にそくして降り立つこと――。    

p.ⅵ.

このような視点から、プリーモ・レーヴィ、パウロ・ツェラン、金時鐘という作家や詩人たちの思想を通して、アイデンティティと他者性の視点から考察を重ねるものとなっています。

とりわけ印象的なのは、自己と他者の決定不可能性という点が、例えば身体、記憶、言語のいずれの視点からも、繰り返し表現されている点でした。
一見すると身近にあると自分の手元にあるものと感じられがちな身体・記憶・言語が、自己と他者の境界に位置したり、他者性を放つのだという点がよく分かります。

「身体」--それは果たしてその人間にとっての「自己」なのか「他者」なのか、そこでは意識にとっての身体の他者性と固有性の両面が、著しく浮き彫りにならざるを得ないだろう。        

p.8.

記憶もまた、したがって、その形式(想起と忘却のされ方)においても、内容においても、自己と他者の境界上に位置していると言えるだろう。ぼくらはいったい自分が何を記憶しているのかが分からない。そして、それがいつ不意に甦るかもわからない。そのような薄氷の上を歩むようにして、ぼくらは「記憶」を抱えて生きているのである。このような「記憶の他者性」――それを典型的に示したものが、トラウマ(心的外傷)という現象にほかならないが――は、ぼくらが「アイデンティティ/他者性」という問題を考える上で、重要な柱のひとつとなるだろう。      

p.12.

ぼくらは自分の母語のある種の変形をつうじて他者の――少なくとも他者の集団の――具体的な「言語」へと同一化あるいは同化を遂げない限り、実際には「自己」を表現できない。これは考えて見れば、きわめて逆説的な事態である。そもそも、この時表現されうる「自己」とはいったい何か。     

p.13.

また、レーヴィ、ツェラン、金時鐘という三人の異なる境遇の作家、詩人たちの生い立ちや作品を比較しながら描かれる流麗な文体には、個人的には新鮮さを覚えました。

また、自己と他者の境界の曖昧さが語られる結果として、アイデンティティの問題が、本人自身にとってもすっきりと納得がいく問題ではなかったり、用いる言語を「異化」し続けることの意味だったりが示されている気がしました。

例えば、キリスト教文化とユダヤ教的伝統の間で揺れ動きながら、あくまで「ヨーロッパ的な「啓蒙」の伝統」や「ユダヤ系イタリア人」として自らを位置づけようとしたレーヴィの話(p.52.)や、フランス国籍を取得しつつも、帰属するべき「国家」をもちえなかったツェランの話(p.57.)、そして「自分の意識のありかそのものを規定している「日本語」を日本語そのものの内側から食い破ってゆくこと」を目指した金時鐘の話(p.82.)などがそれにあたります。

アイデンティティについて、手際よくまとめられた著書というよりも、詩論が緩やかに重ねられている感じではありましたが、色々と考えるきっかけを頂きました。

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