感想メモ

【本】清水睦美・児島明編著(2006)『外国人のためのカリキュラム―学校文化の変革の可能性を探る―』嵯峨野書院.

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目次は以下の通りです。

第1部学校文化と外国人生徒との関係を探る
 第1章 教育課程に「外国人生徒のための授業」を位置づける
 第2章 外国人生徒のためのわかる授業:授業の中での居場所づくり
 第3章 学校の中の国際教室:外国人生徒の変化を通して
 第4章 「選択国際」のカリキュラム編成の実際
 第5章 学校文化への挑戦としての「選択国際」
 第6章 境界線を問う授業づくり
第2部 外国人生徒のための授業づくりへの参画
 第7章 立場の異なる人びとの参画
 第8章 外国人生徒への取り組みが生徒指導にはたした意味
 第9章 外国人生徒との関わりを通して見えてきた教師像
 第10章 外国人生徒支援システムへの新規参入者の視点から
 第11章 ボランティアとして「選択国際」の授業に参画して
 第12章 「ボランティア」ではないものに向かって  
 第13章 「通訳」として:外国人生徒のための授業の意義と問題点と可能性
第3部 当事者からみた外国人生徒のためのカリキュラム
 第14章 「選択国際」と外国人生徒;外国人の子どもたちとともに
 第15章 日本社会に何を期待すればいいのか
 第16章 「外国籍の女の子」としての問題を抱えながら
 第17章 私の経験:外国人として生きる
 第18章 「選択国際」と日本人生徒
 第19章 「選択国際」とわれわれの関係

再読だったのですが、以前に読んだ時と私の状況も変わり、
初めて読むかのような衝撃と重みがありました。

本書では、外国人生徒が学年の1割程度を占めた神奈川県大和市の下福田中学校における実践が描かれています。同時に、関係者の声の語られ方がとても印象に残ります。一人ひとりの痛みや葛藤がメインで書かれているからです。

本書で取り上げられるのは、下福田中学校で2000年度から2005年度までに「外国人生徒のための授業作り」として試みられた「選択科目『国際』」(以下、通商の「選択国際」と表記する)という実践である。この教育実践では、教師をはじめ、研究者、ボランティア、通訳、地域の外国人青少年が関わっていて、その多くが本書の執筆者となっている。しかしながら、それらの人々がここで紡ぎだすのは、ある教育実践の成功の物語ではない。そうでなく、そうした教育実践を行うことや関わることで直面することになった様々な問題や、そうした問題を乗り越えるために試みられた数々の実践である。さらに、これらの実践に疑問を抱く声への対抗や、あるいは、そうした声に反応した実践への問い直しも綴られている。      

p.ⅱ.

本書を企画するにあたって、編者の一人として一つだけ願ったことがある。それは、本書が、一つの学校の一つの授業作りの、狭い意味での実践報告に終わってしまわないことであった。往々にして、この種の報告は、目に見える「成果」を並べあげることに熱心で、実践に含まれるはずの「痛み」や「葛藤」を、意図的にせよ、そうでないにせよ、排除してしまう傾向にある。その実践自体がいかに優れたものであろうとも、「痛み」や「葛藤」を含まない報告は、そこから何かを掬い取り、次の実践につなげていこうとする者に、多くをもたらしてはくれない。そういう本にだけはしたくなかった。      

p.263.

実践記録を残す際の、一つの可能性を示しているようにも感じました。

印象に残った点を幾つかメモします。

一点目
本書では「選択国際」の実践についても詳述されており、その内容も参考になります。特に、自分たちのルーツを探っていくような授業展開も非常に興味惹かれるものです。

「選択国際」が始まって最初の3年間は、地理・歴史学習が中心であった。母国のことを知らない外国人生徒のために「なぜに自分が日本にいるのか」というテーマのもとで学習が行われていた。      

p.29.

そんななかで「選択国際」の生徒たちは、必死で自分のアイデンティティを見つけようとしていた。たとえば、授業で、「なぜ、おじいちゃん、おばあちゃんが外国へ移民することになったのか」について、戦前の日本の歴史を探ったり、両親から話を聞いたり、日本の地図、母国の地図などを教材として使うこともあった。それは、生徒たちに「なぜ今自分がここにいるのか」の知識を持たせるためであった。一年が終わろうとした時には、大きな声で生徒たちは、自分の気持ちを語れるようにもなっていた。

p.172.

また、2003年度「選択国際」から、日本人生徒が参加し、「力関係に踏み込むために必要な対立や葛藤を生み出すこと」「「敵対性」の創出」に力を入れていった点(p.51.)もこの「選択国際」の特徴を説明する上で、印象深かったです。   

二点目
本実践の前提となる外国人生徒が抱える学校での苦しさや問題点について、詳述されている点です。

「外国人生徒の多くは学習での遅れという困難さを抱えていたが、国際教室での学習支援ができる時間には限界があった」(p.28.)という点や、日本に来ることで、「「できる自分」が「出来ない自分」へと変わ」った生徒の話(p.31.)  など、多岐の話が出てくるのですが、いずれも「私が下福田中学校に転勤して、初めに気づいたことは外国人生徒たちの「学校からの離脱」の現実であった。」(p.4.)と呼ばれる状況に繋がるものであったことが分かります。

本書後半に書かれた(苦悩を抱えた)生徒の声の記録を読むと、本当に何も言えない気持ちになります。読むべきとしか言えません。

三点目
授業を通して「差別や偏見」とその背景、構造などに目を向ける姿勢が強く見られます。「選択国際」では途中から日本人生徒が入ってくることになるのですが、その前後での授業内での「差別や偏見」への迫り方の位置づけも少し変わっているような気もします。

外国人生徒にとって差別や偏見の経験に目を向けることがなぜ重要なのか。それはそれが、日本社会のなかでマイノリティのアイデンティティを支える共通の経験であるからである。・・・(中略:斉藤)・・・とりわけ日本生まれ、あるいは成長期の大部分を日本で過ごしてきた外国人生徒にとって、自らのルーツに関する知識は事後的な学習によって習得せざるを得ない者である一方で、差別や偏見の経験は、かれらが生きる日常生活そして自己形成過程にいやおうなく刻み込まれていくものである。それゆえ、マイノリティとしてのかれらのアイデンティティ形成を支えていくためには、母語保障や母文化の尊重のみでは不十分であり、不平等な社会における彼らの経験をほかの外国人生徒たちとともに分かち合う場を創出することが必要となってくるのだ。だからこそ、「選択国際」では、普段の問い直しを行いつつも、「外国人/日本人」という境界線にこだわったのである。その境界線を利用することによって、外国人生徒は差別や偏見の経験を分かち合うことが可能になり、「日本人に対峙する外国人」という共通の足場を築くことができたのである。  

pp.92-93.

日本人生徒が外国人生徒と本当に共に学校生活を送るためには、心情ではない、構造的差別を理解することが必要だと私は思う。そうでなければ日本人の発する外国人への「私たち友だちだよね」などという言葉は日本人による日本人の満足のためのものでしかないからだ。    

p.225.

四点目
「選択国際」の授業を通して、他者と対峙するような対話を求めている点です。逆に、授業内容自体が外国人生徒にとって抑圧的なものに組み変わっていくことに対して、非常に繊細に感じ、批判的に論じられています。

スタッフの間では、外国人生徒に関わる知識を獲得していく過程で両者の間に生じる対話こそが学習の最大の成果とみなされている。したがって、合理的に調べたり、早く仕上げることを奨励するようなことは一切口にされていない。にもかかわらず、生徒たちの間では、知らず知らずのうちに首尾よく発表を行うための調べ作業になってしまっている。そして、このような調べ学習は、まさしく日本人生徒が得意とするところなのである。・・・(中略:斉藤)・・・作業中心の学習が知らぬ間に日本人生徒中心の学習となってしまい、外国人生徒が周辺かされてしまうことの背後には、日本人生徒が有利な形で習得している「学びの型」が存在している。その「学びの型」を形づくる効率や合理性といった原理は、まさしく学校という場そのものが追求する原理であり、通常の学校生活においては賞賛されるべきものあるだけに、それを行使することが外国人生徒に対していかに抑圧的に働くかを想像することは非常に困難なものとなっている。

pp.59-60.

五点目
実践に関わる大人の関係者たちの語りが、非常に内省的、反省的なのが印象に残ります。このことが本書における「葛藤」を描き出すゆえんだと思うのですが、ここまで書くかというくらい、各人の内面が描かれています。大人側の変容が描かれている点も、本書の特徴の一つなのだと感じました。

単純に「学校は子どもたちの居場所であり、子どもたちにとって有益な場所」であると、私はどこか信じ込んでいた。まして、教師という立場であるからこそ、なおさらそう考えるのかもしれない。学校に来られない生徒にとっても、本来学校は意味のあるところであって、教師の取組によってその子が壁を乗り越えることが必要なのだと信じていた。しかし、それらのすべての前提として、「日本人にとって、日本の学校は」という言葉がつくことを、この時初めて気づかされたのだ。日本人は、日本の学校で主役として存在することができるが、外国人が、日本の学校で主役になることはないのだ。           

p.7.

六点目
最後に、私自身はこれが本書の一番大切な点だと思うのですが、外国人生徒や、外国人関係者の声が描かれていることです。そのどれもが学校社会の中でもがく外国人生徒や日本社会への批判を含みこんでいて、読んでいる自分自身に問いかけられているようでした。読んでいて辛く、同時に目が離せない。そんな感情の籠った文章が並んでいます。

私と私の家族は、間違いなく多くの日本人にめぐり合うことができ、その人たちは日本でわたしたちが生きていくための勇気と努力の力強い味方でもある。でも、日本社会に伝えたいことがある。それは「私たち外国人はお客様ではありません」ということである。立派な市民として自立し、日本が第二の祖国と言える日まで頑張りたい。日本社会にもっと深く溶け込んで、第一の祖国と変わらない生活を送ることができればと強く感じている。             

p.176.

自分のことを伝えなければ、誰にも何も伝わらないということはわかる。だから、日本人が言う「言わなければ、わからない」という考えにも納得し理解している。しかし、いつも悔しく思うのは、一体どのような言葉でどのくらいの辛い思いや体験を語れば、日本人たちは納得するのだろうか。そして日本人は話さなければわからないというが、聞いた日本人は、一体何をしてくれるのか。結局、いままで私たちが生きてきた学校や地域の日本人たちには、何もしてもらうことはなかった。・・・(中略:斉藤)・・・ほとんどの外国人は、ただ理解してもらおうと思って日本人には、語らないであろう。社会的構造において強者で、聞く者である、日本人に何かを期待して語るのである。しかし、その期待が裏切られた時、その語るもののそのこと言葉は失われていく。結局ほとんどの場合、私たち外国人は、日本人に「言わなければ、わからない」といわれるなかで無視され、言葉を発したとしても、私たちの言葉は、日本人のための外国人理解か日本人のための生きがいに利用されていき、私たちは、言葉を失っていく。            

pp.206-207.

最後の文章に象徴されるように、読者として、自分の生き方自体を振り返らざるを得ない、モヤモヤとした感覚が残ります。本当に一つ一つのエピソードが重たく、ズッシリしています。

私が詳しい分野ではないですが、読後感として、本書が外国ルーツの子どもたちの教育に関わる関係者の皆さんにとって、勇気と可能性を与える本になっていることは確信しています。

読者の心を揺さぶってくる、読むべき本なのだと感じました。

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