感想メモ

【本】ジェーン・R・マーティン著:生田久美子監訳(2021)『学校は私たちの「良い生活」だったーアメリカ教育史の忘れものー』慶應大学出版会.

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目次は以下の通りです。

第1章 よみがえるリトル・レッドの記憶
第2章 子どもに優しい学校
第3章 「その場にいて、自分たちが進歩主義教育を実行した」という幻想
第4章 新しい教育との密接な出会い
第5章 埋もれていた宝物
終章
解説:進歩主義教育の〈分有〉(田中智志)
監訳者のことば:「生活(ライフ)」から「知」を問うことの意義(生田久美子)

本の構成も含めて、とても斬新で面白い本でした。
本書は、教育哲学者として有名なジェーン・マーティンが、自身が過去に通い、進歩主義教育の学校としても有名な、リトル・レッド・ハイスクールの記憶を描きながら、自身の教育論についても論じる内容となっています。元クラスメートからのインタビュー調査も行われ、オーラルヒストリーとしての性格も持っている本となっています。

私が本書で綴る「物語」がはるか昔の出来事である。この物語は、9月のある日、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあるリトル・レッド・スクール・ハウスに向かう地下鉄に、私が初めて乗車した場面から始まる。それは、私の10歳の誕生日から2か月後、そして第二次大戦がはじまってから1,2週間が過ぎた日のことだった。しかし実は、私の物語はもっと早くから始まっている。真の出発点は、1934年、私のー本書では「私たちの」―リトル・レッド・スクール・ハウスのクラスが誕生した年である。  

p.12.

本書は、一方でリトルレッドスクールハウスという実在の学校を対象とした記録(記憶)という形を表面ではとりながら、他方では、氏の研究が持つ「知識論」と「教育論」とが最終的に接合する到達点において、もっとも明確に教育理論を吟味する理論的著作なのである。    

p.342.

本書を読んでいて一番強烈な印象が残るのは、やはり、著者自身が、リトル・レッド・ハイスクールの日常を描くことで、進歩主義教育への歴史的な批判に反論をしていることだと思います。

リトル・レッドがグリニッジ・ヴィレッジで行った教育における実験を歴史書が無視していること、また、進歩主義教育から最も影響を受けた存在である子どもたちの視点から当該の教育を検討する研究があったとしてもごくわずかであることを踏まえると、リトル・レッドの同窓生である私たちが共有している数々の記憶は、この国の教育的知見にとって、重要な一部分である。

p.25.


反論は様々な点に及ぶのですが、一番は、進歩主義教育がエリート的であった、という点だと感じました。

アーウィン先生やリトル・レッドの教師たちにとって、ラヴィッチが描写したようなエリート的で基本的に非民主主義な見方は醜悪で嫌悪すべきものだったように思える。ブリーカー・ストリート196番地の赤いドアは、すべての者に開かれていた。デ・リマは「リトル・レッドの子どもたちは、あらゆる階層からやってきて、メイフラワー号でやってきた者の子孫もいれば、この国にきたばかりの難民の子どもたちも含まれている。・・・私たちは来るものを受け入れ、テストどころか面接も行わない。公立学校と同じことをやっている」と語っている。(1942、7頁)。合同メソジスト教会の信者だという白人のクラスメートは、クラスの親友が住んでいるハーレムの家に行ったと話した。その後で、次のように述べた。「私のクラスには、たくさんのユダヤ人の子どもがいました。パレスチア出身の者もいて、彼は当時おきていた戦闘の近くにいたことについても話してくれたこともありました。」リトル・レッドの日々の生活には多様性が埋め込まれていたし、違いを受け入れることはリトル・レッドのなかに意識的に含められていた。これらのことは、当時のほとんどの伝統的な学校では語られていなかった。

p.157.

その他、当時のグリニッジ・ヴィレッジに住む人がどんな人たちだったか、学校の周りの様子や、校外への学習をするときにどんなエリアを通ったかなど(p.168.)も具体的に説明されていました。いずれも、進歩主義教育批判に対抗する主張として、強力なインパクトを感じました。。    

印象に残ったことを数点メモします。

一点目
著者の語りの中で、当時のリトル・レッド・スクールの実践について多く紹介がなされています。その中で、今でいうような総合学習、教科横断的な学びがなされている様子が非常に具体的に説明されています。

ストール先生の日記によると、私のクラスでは、かつてインディアンの小径にあった通りにそってグリニッジ・ヴィレッジを歩いた後で、インディアンの漁について、漁に使う網への祈りや捕まえた魚に捧げる感謝が語られる物語を先生に読んでもらっていた。その物語の時間は算数の時間にまで流れ込んでいった。「網の長さは7ファゾム(1ファゾム=両手を左右に伸ばした長さ)で、もう一つの網の長さはその10倍だったので、私たちは「測量」についての問題が載っている算数の本のページをめくって、ファゾムとフィーとに関する問題を書き入れました」と、ストール先生は日記に書いている。ストール先生が後の授業のために残した記録によると、フィリス、ポール、ジョアン、メアリー・ジェーンは、インディアン・トウモロコシの粒を使って、インディアンが走って180マイル離れた場所に手紙を五日間で運ぶために必要な一日当たりの走る距離を導き出している。  

pp.54-55.

プエブロを作ること、演劇作品を創作すること、雑誌を刊行すること、歴史書を書くこと、リンゴジュースを作ることーリトル・レッドのような進歩主義学校がカリキュラムの中心に位置づけるこうした諸活動は、学校の中にだけ限定されるものではなかった。それは、子どもの興味を捉え、長期間にわたって興味を惹きつけてやまない「実生活」の諸活動であった。子どもたちがそれらの活動を首尾よく行おうとするならば、それにはあらゆる学術的知識と技能とが求められた。一方で、伝統的な学校に通う子供たちは、そうするように命じられていたため、或いはテストで悪い結果を出して罰を受けたり落第させられたりすることを恐れたために、読み・書き・計算やさまざまな学問教科を学んでいた。他方で、リトルレッドのような学校に通う子供たちは、そうした知識や技能が自分たちのプロジェクトを進めるうえで必要だったために、それらを学んでいたのである。    

p.107.

二点目
著者は、進歩主義教育への批判の一つとして、自由放任主義という見方が挙げられるとしたうえで、それに明確な批判をしています。

学校を子どもに合わせることは、自由放任主義にふんぞり返ることや、落雷のように何かが偶発的に起こるのを待つことを意味するのではない。それは、読むことへの衝動が発現するような、子どもに優しい環境を創出することを意味していた。         

p.98.

あるクラスメートがインタビューに「リトル・レッドの教育は、私たちに何かを教えているという感覚を決して持たせることなく、非常に多くの事柄を教えてくれているという、素晴らしい教育でした」と語った。私はこの感想の言葉によって、何故洞察力のない観察者が進歩主義教育を自由放任主義であるとしばしば非難するのか、その理由を理解することができた。私たちは「言葉通りに」ゲームで遊ぶために輪になるときに、私たちは意識的に何かを学ぼうとしているわけではなかった。私たち子どもの立場からするとーそして、おそらく素朴な観察者の観点からもー私たちは単にゲームをして大いに楽しんでいるだけだった。しかしスティーブンソン先生の立場からすれば、そのゲームは文法のレッスンにほかならず、私たちは副詞について実際に学んでいたのである。            

pp.62-63.

この文脈で読むとき、「スロー・ペタゴジー」の話もとても腑に落ちるように思います。

リトルレッドのスロー・ペタゴジーはスペリング、文法、算術にまで拡張された。一方から見れば、リトル・レッドの教師たちはこれらを形式的に指導し始めるのを遅らせていた。しかし他方から見れば、彼らは非形式的な教育を私たちに早くから与え始めていたのである。デ・リマはこの3Rsを「道具的教科」と呼んだが、私たちにとってそれらは遠い将来に必要となるただの道具ではなかった。私たちは、それらの道具を、今・ここにおいて必要としていたのである。たとえば、ヴィレッジの周りを歩いているときに出くわす標識を読むために、劇で用いる衣装を作る上で必要な布の総量を計算するために、私たちの町を建設するために、学校に球根を植えるために、詩や作文の最終版を書くために、現地調査で出会う人々や土地についてより多くのことを調べるために、それらの道具は必要だったのである。                   

pp.250-251.

三点目
著者の教育論とも直結する話ですが、学びにおける体験知の重要性や、心と身体を切り離して学ぶことへの批判がちりばめられています。
同時に、体験知を重視していた教育として、リトル・レッドが紹介されているとも言えます。

リトル・レッドは、私たちの身の回りの世界については体験知を得られるように、また私たちが実際に尋ねることができない場所や過去の世界の様々な部分については仮想的な体験を通した知識を得られるように、教育環境を整えていたのである。

p.181.

リトル・レッドの教師たちは、学校での学習を子どもたちの身体、心、感情、そして子どもたち自身に刻み付けたのである。私自身についていうならば、私はミイラづくりをし、レンガ工場の歌を歌い、イーストバーン先生が私たちが農奴に扮する手伝いをしているときに安全ピンが首に刺さり、副詞ゲームをし、クラス全員で演じたアン・ハッチンソンに関する劇では「統治者の奥さん、ウィンスロップ婦人」という歌の一節の半分をうたった。自分が教育哲学者になってからリトル・レッドの教師たちを振り返ってみると、リトルレッドではジョン・デューイが提唱していた教育を実践していたことがわかる。つまり、リトル・レッドの教育は、心と身体を切り離して考えることを拒否していた。   

p.199 .

進歩主義教育の批判者たちは、現地調査を学校カリキュラムの「つけたし部分」とみなしがちである。それはつまり、現地調査は学校カリキュラムの「余計なこと」や「贅沢な部分」だとみなしがちであるということである。これに対して、リトルレッドのような進歩主義教育で育った人々は逆に、子どもたちは自分が住む世界を直接に経験することが不可欠であると確信している。             

p.277.

著者が、当時のグループのプロジェクト(たとえば、遠足、演劇、雑誌作り、クラス討論への参加など)の二重の役割として、「一つは、子どもたちがアカデミックな研究課題と出会うための媒体として役に立つこと、もう一つは個人のニーズや興味という狭い殻から子どもたちを解放すること」(pp.192ー193 .)を挙げているのが、この後者の意味が分かりやすいように、本書全体が構成されている気がします。

このような「体験知」に関わる「知識論」の話は、巻末の生田先生の文章がとても参考になります。ソクラテスからデカルトへと続く知識観に対して、ギルバート・ライルに代表されるような批判が登場することなど(pp.339-340.)について説明されています。

四点目
この点も、進歩主義教育の評価に関わる点だと思うのですが、リトル・レッドに通っていた著者自身が、リトル・レッドについて低い評価を下していた時期があった、という点が印象に残りました。
この点は、進歩主義教育の学校に通った著者がその後にどのような苦労をしたり、他の環境に社会化されていったのか、という点を理解する上でもとても参考になります。また、卒業生のインタビュー記録を見ても、リトル・レッドへの賛否両論があるようで(もちろん、「良さ」の方がメインで描かれてはいるのですが)、評価の難しさも色濃く示している気がしました。

私は、リトル・レッドを愛していたにもかかわらず、またリトルレッドで全ての時間を楽しく過ごしたにもかかわらず、私がそこで受けた教育をまったく標準以下であったと結論付けるようになっていたのである。   

p.126 .

私は、本書を執筆している時にようやく、自分がリトル・レッドへ向けた批判が間違っていたことに気づき始めたのである。    

p.132.

また、著者がその後に勤める名門大学の授業でも、ほとんど進歩主義教育の学校出身の学生がいないことや、学生らが進歩主義教育に否定的な意見を述べる場面なども出てきます。「進歩主義教育がエリート的である」という解釈の意味とは何なのだろうと考えさせられてしまいました。

五点目
リトル・レッドの教育が民主主義を教えるものだったという点です。
ここで言う民主主義というのは、特定教科で教えるというよりも、学校生活そのもので教えている、という方が正しいかもしれません。
その捉えどころは本来難しいのですが、本書でエピソード豊かに描かれる事例の数々を見ていると、著者の言うことに伝わってくるものがありました。同時に、著者が「民主主義的な生活様式を学校で学ぶべき」と主張していることも実感できます。

リトルレッドが目指したのはまさに、自分よりも幸福でない人々に配慮し、民主主義を大事にする生き方をする人間に子どもたちを、成長、発達させることであった。         

p.93.

子どもたちは、生まれながらに民主主義を信じ、民主主義的な生活様式を営むことができるわけではない。それらは獲得される特性なのである。もしも、私たちにとっての21世紀のアメリカが、家、近所、ショッピングセンターのいずれもが当たり前のように民主主義の空気を吸える場所であるならば、学校が自らの仕事の一部として、民主主義的な生活のための教育を担う必要は必ずしもないだろう。しかし、今日のアメリカに、それは望むべくもない。高いテスト成績を獲得することが熱烈に望まれる条項に置かれた子どもたちが民主主義の「基礎」を学んでいないことを、私は個人的にも憂慮している。

pp.141-142.

本書は、回想録としての性格も持ちながら、そこに様々な知見や先行研究批判を盛り込まれています。
非常にユニークで、刺激的な本だと感じました。

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