感想メモ

【本】石井英真編著(2021)『流行に踊る日本の教育』東洋館出版社.

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目次は以下の通りです。

新しいものにとびつく前に、当たり前をやめる前に
資質・能力ベースのカリキュラム改革―学校ですべきこと、できることは何か?
個別化・個性化された学び―「未来の学校」への道筋になりうるか
対話的・協同的な学び―新しい知と文化が生まれる学校を目指して
プロジェクト型学習―カリキュラムにおけるプロジェクトは「メソッド」の再来
インクルーシブ教育―「みんなちがって、みんないい」の陰で
教師による「研究」―「仮説‐検証」という呪縛
外国語コミュニケーション
大学入試改革―それで高校教育は本当に変わるのか?
エビデンスに基づく教育―黒船か、それとも救世主か
社会に開かれた教育課程―カリキュラム・マネジメントと「地方創生」
座談会 いま一度、立ち止まり、語り合っておきたいこと

一時期話題になった本です。
教育方法学者を中心とした著名な研究者たちが、現代の教育政策の論点について論じた本です。
とりわけ、日本の過去の実践や教育研究の蓄積を踏まえて、現代の論点を語り直そうとする姿勢が強く見られます。

歴史、特に日本の教育学と教育実践の歴史が無視されがちです。そこで、本書では、温故知新(この歴史の遺産、あるいは教訓を語り継ぎたい)を重視して、流行を吟味することを試みています。さらに、「こんなことは昔からやっている」「こんな問題がある」という批評家的論調、あるいは、民間の発想やグローバル化に対して、ただ日本の学校のよさを再評価するのみの保守的な論調にならないように努めました。  

p.12-13.

各章とも、現代の教育の論点を整理しつつ、その過去の蓄積にも焦点を当ててくれているので、とても充実した内容になっていると思います。
過去に目を向けつつ現代の論点を考える、という意味では、大西忠治の例が、とても象徴的な感じがしました。

 日本の教育実践においては、一斉授業のなかでも一人ひとりの子どもを「見る」ことの重要性が認識されてきたことも指摘しておきたいと思います。例えば、中学校教師であった大西忠治は、子どもの方を見ていても、子供の顔の上を流れ続けるような視線を<流れる視線>と呼び、それでは子供を捉えることはできないと説いています。子どもの表情や身体的な応答からその心の動きをつかみながら授業をしていくためには、子供達一人ひとりをしっかりと捉えていく視線に変えていくことが、教師の職業的訓練のひとつであると述べているのです(大西、1987年、29-30頁)。「まなざしの共有」「目と目の握手」など、教壇に立ったことのある人であれば、一斉授業のなかでも、子ども一人ひとりを「見る」ことの重要性と難しさを実感したことがあるでしょう。こうした日本の教育実践の遺産は、個別化・個性化が単なる学習形態の問題なのではなく、一人ひとりの子どもをどのようにとらえるのかという、教師の子ども理解の問題としてもとらえられなければならないことを問題提起してくれます。

pp.57-58.

一斉授業と個別学習を二項対立的に捉えるのではなく、その間があることを、まさに過去の先人から学べるという感じがします。
また、プロジェクト型学習の章では、その教育方法のルーツや文脈をたどることの意味を感じさせてくれます。

キルパトリックのプロジェクトの、その原理主義的で洗練された理論と実践のありようは、すでに批判の対象となっていた伝統主義的な知識注入主義や実践的には形式主義に傾いていたヘルバルト主義へのアンチテーゼの意味合いが強く、その実践事例も都市部の実験学校に偏するものでした。子どもの目的意識に満ちた自然な生活が、皮肉にも、人工的に構想され実践されるという展開をみることになってしまいます。プロジェクト型学習を現代に復活させ、キルパトリックの枠組みのみを大づかみにして思考を開始し、参照規準として学ぶと、当時の彼の「仮想敵」に気づかぬまま、子どもの自然な生活を人工的に現出することに最大の価値をおくことになってしまいます。また、様々な禁忌が持ち込まれ制約が大きくなります。  

p.107.

このような指摘は特に、過去の教育方法が導入された背景や経緯を知らないと出来ないと思われるのですが、それゆえに過去の知見に学ぶ重要性を感じます。

論点豊富なので、色々と勉強になりました。
例えば、インクルーシブ教育の文脈で「知的障害のある子どもの学習保障について、ほとんど言及されていないこと」(p.136.)や「授業内容への言及の少なさ」(p.139.)が挙げられていた点などは、他の論点にも通じる点があると思いました。

また、大学入試改革の話で、著者が「究極的には、受験対策一辺倒にならない、かといって受験対策の必要がなくなるわけでもない、ちょうどその中庸、つまり、この両者が微妙な形で成立するところに、大学入試は制度設計されなければならないと考えています。」(p.222.)と指摘していたのは、気づきが大きかったです。

座談会の話も、執筆者陣の問題意識を知る上で、とても読みごたえがあります。全体として、教育が市場化されていくことへの懸念が念頭にあるように思えて、とりわけ、以下の話などが、全体の内容にかかわる話だと感じました。

親たちは、自分や自分の子どもの私的な利益の追求の一環として、個人的な投資やお金を出して選ぶサービスのようなものとして教育をとらえはじめ、その肥大化する教育熱が外部を呼び込んでいます。その結果、宣伝上手な目新しく見えるプランが出てくるとつい飛びついてしまう。この心理の背後には、現状を「まだまし」とはとらえずに、「もっといいものがあるはずだ」「選べるはずだ」とする消費者意識があるように思います。一方で、教育の内部の人たちは経済感覚に乏しく、聖職者意識の延長線上でコスト意識もあまりない。だからこそ、無償で、自分のプライベートの時間を削ってまでも、子どもたちの教育に時間と労力をかけることができたわけです。しかし、教育の外部の人たちからすると、学校緒のがんばりが非効率に見えるし、お金に換算したら本当なら結構な額になる仕事を教師がやっていることも見える。そこをうまい具合に、もうちょっと安く手ほどほどのサービスでやることで、うまくビジネス化できるかもしれないという認識に至っているように感じます。こうした動きや傾向は、日本よりも海外、教育会よりも経済界といったように、「学校の内側ではなく、外側にこそユートピアがある」という考え方とパラレルに進行しているように思います。だから、足元で踏ん張れない。

pp.292-293.

最後に、本書の執筆者らは、教育学の研究者という立ち位置から、現代の教育政策の論点について、 知見を示しているわけなのですが、その「教育学研究者としての役割や責任」のようなものが、随所に光っているように思われて、その点も刺激を受けました。以下のような指摘はその例かと思います。

「未来の教室」に限らず、新しい施策が打ち出されるたびに、現場に及ぼす影響を想定しながら現場の先生方と共に考えていくことが、私たち教育学者の役目として重要になると思います。     

p.324.

現代の教育政策の論点が目まぐるしく変化し、新しい技術や発想がどんどん取り入れられていく時代だがらこそ、過去の遺産や研究蓄積に目を向けるべき。そのメッセージを著者一同が共有していることが読んでいても伝わってきて、大変勉強になりました。

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