感想メモ

【本】ロイス・ホルツマン著:岸磨貴子他訳『「知らない」のパフォーマンスが未来を創る:知識偏重社会への警鐘』ナカニシヤ出版.

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目次は以下の通りです。

Part I
1 知るということは? 成長するということは?
2 愛にあふれる革命家,レフ・ヴィゴツキー:成長について教えてくれた世界的思想家
3 苦しみぬいた知ったかぶり,ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン:知ることの危うさについて教えてくれた世界的思想家
Part II
4 知ることの内容とその方法
5 ばかげているのは,子どもではなく,学校だ
6 心理学のつくったベッドに寝ないとすまない私たち
7 科学の礼賛文化/ cult(ure)はいかに終わりうるのか
Part III
8 私たちは,知ることに頼らず成長できる

既に翻訳書が何冊も出ている、ロイス・ホルスマンですが、
私はホルスマンの本を読むのはこれが初めてでした。
入門書という位置づけの本として書かれています。

個人的な関心は「パフォーマンス」や「演じること」の可能性や強みについて学ぶことだったのですが、その主張に至るまでの様々な前提認識や科学観などもふんだんに論じられており、勉強になりました。

途中でヴィゴツキーやヴィトゲンシュタインの思想を経由しながら、最後の方で最終的な教育の主張がなされていきます。その段階的な語りの中でじわじわと読者目線で学んでいくことができます。

途中で、伝統的な心理学へのかなりきつい批判が続く場面があったりもするのですが、著者の主張自体は楽しく読むことができました。


印象に残った点をメモしておきます。

一点目
私たちが文化や社会に適応すると同時に創造する行為をしているのだという点が強調されていたことでしょう。創造というのは、天才だけがやるものではなくて、私たちは実はいつも知らず知らずの中でやっており、そこにこそ学びのヒントがある。そういうことかと思います。

これが意味することとは、人間としての私たちが、自分たちの創造した文化や社会に常に適応しようとしているということです。しかし、それがすべてではありませんーー私たちは、自分たちが創造した文化や社会に、単にそのまま適応するだけではなく、そこから創造し、またそれに適応し、それから再び創造し直し、さらにその上に、上に、上に、とつづけていきます。ここで重要なことは、私たちはただ適応するだけではないということです。私たちはただ振舞うだけではないのです。私たちは人生のなかで自分たちの居場所を見つけるだけではありません。私たちはすでに行われていることをなぞるだけではありません。私たちは、すでに発明され考えられてきた物事やアイデアを利用するだけではありません。そうではなく、人ともの、アイデア、制度の作り手なのです。私たちは、以前からあるものや今ここにあるものの単なる利用者ではありません。私たちはいつも既存の物事から何か新しい物を作り出しているのです。私たちがいまいる環境を私たちは変容させます。私たちは、なりつつあることに取り組むのです。私たちは自分たちの発達を創造します。

pp.26-27.

私たち挑戦者は創造性というものを、ある個人の特色というより、私たちの周りの全てにみます。私たちは、創造性を社会的な現象として、関係性のプロセスとしてみています。そして人類が、互いに、あるいは自然環境と、そしてそう、私たちが作り出した文化的な人工物(事物も考え方も)とのつながりを表現する最も重要な方法のひとつとしてみています。世紀を超えたあらゆるサイズの、あらゆるタイプのグルーピングに属する人々が、私がこの文章を書いているコンピュータ、皆さんが読んでいる印刷物や電子書籍のスクくリーン、そこで現れる言葉そのもの、私たちをつなぐ交換の様式をつくり出しました。皆さんが今、このとき目の前で見ることができるひとつひとつの物事のすべてが、人類の創造的な過程の証拠なのです。                  

p.129.

ゆえに本書では、創造性を個人主義的というか、能力主義的に捉えることに反発している感じがします。「個人主義的で成果を重視した創造性の理解は、それ自体も、人間が作り出した考え方です。皮肉なことに、まさにこの理解の仕方こそが、私たちの膨大な創造の才能を発揮することから遠ざけているのです! 」(p. 130.)と述べられていました。

二点目
学びにおいて、「演じること」の重要性を指摘している点です。
その際に、演劇のようなイメージより(勿論それは一例としてはあると思うのですが)も、実は子どものときにやっていたごっこ遊びや遊びのなかにこそ、そのヒントがあるように書かれている気がしました。
遊びの要素を含みながら、演じることで、「知る/知らない」の二者択一的な世界観とは違う学び方につながる、ということだと理解しました。

遊びが学齢期以前の子どもたちにとって、最良の発達の活動であるといっていたヴィゴツキーは、子どもたちがごっこ遊びや自由に遊んでいるときに何が起きているか、彼の考えをこう伝えています。「子どもたちはいつも、遊びのなかでは自分の年齢よりも高い年齢であるかのように振る舞う。普段は、年齢相応なのに。遊びのなかでは、彼らは、今の自分自身より頭一つ分背伸びしているのだ」

p.116.

演じることは、二者択一のパラダイムという(知ることの)現実の虚偽を証明し、パフォーマンスと変化、私と私でない何者かという選択肢をもつことを与えます。それは、人は普遍的でもあり、変化もしつつあること、自分自身でもあり、また自分自身ではないだれかでもあることを示しているのです。そしてそれこそが、この本で述べている発達です。

p.122.       

単に皆さんが知っているもの、知っているやり方ではなく、会話を創造するように遊びましょう。そして、最も重要なことは、小さな子供以外の人々と共に「在る」即興的な方法として遊ぶということ。それによって、人生を通じて新しい成長の可能性を創り出すことです。        

pp.124-125.

三点目
ヴィゴツキーに依拠しながら、知性と情動を切り離す見方を批判していることです。印象に残ったのは、近年の社会情動的学習に代表されるように、情動を「認知的に」扱おうとする流れにも同じく批判しています。

ヴィゴツキーが挑んだもう一つの事柄は、知性を情動から切り離し、情動面をとことん無視して知性に焦点化する心理学の方法でした。彼は、これを歪曲した見方としてとらえ、その結果、人間がどういう存在かについて一面的な見方に陥ると考えました。彼は、知性と情動とは、一つの相対(「一つの総合」)とみなしており、常に人間の発達と学習に――実際、人間の生活のあらゆるところに――登場するものと考えていました。      

p.28.

情動がおとしめられてから1世紀が経ち(結局はだれが情動的なのでしょう?――女性です)、急に注目されつつあります。教育の中で、私たちは、カリキュラムに入っている「社会情動的学習(social-emotional learning)のプログラムを目にするようになっています。心理療法のなかで、私たちはクライアントの情動をどう扱うべきかの講座や研修を見かけるようにもなりました。(本当に。これが冗談ならいいのですが。)神経科学でも「情動脳(the emotional brain)」にみんな興奮しています。残念にも皮肉なことに。情動を無視する社会科学と教育の同じ認知バイアスが、これらの新しい展開においても登場します。これらすべてにおいて、情動は認知として扱われています。・・・情動を、管理されるものとして理解し、知ることができるものとして扱おうとすることで、私たちの脳が肥大化していることは疑いようがないのです。         

pp.28-29.

四点目
本書の主張は、人間を統一的で包括的な存在として捉えるべき、ということだと思うのですが、その結果として、教科ごとで分けることを所与とするような知識獲得の考え方にかなり批判的です。(学校批判も全体的に結構過激です。)
ただ、育てるべき資質能力を要素主義的に捉えてしまう懸念などが想起され、色々と考えることができました。

学校に通うことによって、子どもたちは数学を(そして読むことや科学や歴史などを)、「数学は○○先生の授業」「数学は1時間目」「数学はこの宿題」というようにとらえるようになるのです。人間の文化のすべてを別個の科目へと分割することによって、学校は、知識獲得の名のもと、実際には私たちを知識から阻害し、私たちを無知なままにしているのです。境界が世界と学習過程を歪めているのです。           

p.64.

ジワジワと学べる良い本でした。

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