感想メモ

【本】小島寛之(2017)『使える!経済学の考え方:みんなをより幸せにするための論理』ちくま新書.

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本書の目次は以下の通りです。

序章 幸福や平等や自由をどう考えたらいいか
第1章 幸福をどう考えるか―ピグーの理論
第2章 公平をどう考えるか―ハルサーニの定理
第3章 自由をどう考えるか―センの理論
第4章 平等をどう考えるか―ギルボアの理論
第5章 正義をどう考えるか―ロールズの理論
第6章 市場社会の安定をどう考えるか―ケインズの貨幣理論
終章 何が、幸福や平等や自由を阻むのか―社会統合と階級の固着性

学生時代に読んだ本で、読みやすかった記憶がありました。
最近再読する機会があったので、まとめてみます。

本書の帯には「よい社会って、何だ?」と書かれています。
良い社会について経済学の視点から考察すること、これが本書の目的です。

「幸福」、「平等」、「公正」、「自由」、「安定」といったものは、それぞれがぶつかりあって一筋縄ではいかない。これらの概念はどれも単品でなら「理想的」であり、多くの人が人生において最も大切だと考えるものである。しかし、同時に、これらはさまざまなトレードオフを持っており、口でいうほど簡単には両立しないのである。本書は、そんな「幸福」、「平等」、「公正」、「自由」、「安定」といった概念について論じる本である。しかも、「数字を使って論じる」という独特のスタイル(これこそは、現代の経済学の方法論である)を持っている。     

pp.18-19.

ここで言いたいのは、経済学が主としてテーマとしているものが、決して「お金の量」や「儲けること」ではなく「幸運」そのものである、ということだ。            

p.31 .

本書において、「経済学的に見る」という言葉は「数学的に捉える」「数理的モデルとして捉える」ということとほぼ同義です。本書はその強みを以下のように強調しています。

数学的な抽象性は「物事の本質だけを抽出する」という長所を備えているのを見逃してはならない。数字は、さまざまな自然や社会の減少を抽象化し記号化する。このことで、田生の現象そのもの、また、その全体像は失われてしまう。けれども逆に、それだからこそ、全体像に惑わされてかえって見えなくなっている本質を、浮き彫りにすることができるのである。         

p.23.

このようなアプローチから、著名な経済学者の論が整理されていきます。
数学的な話も時々出てきますが、かなり読者に優しい形で説明がされていますし、数式の前後の説明を読めば、ある程度理解できるような配慮もなされている印象です。

随所にわかりやすい例などもあり、例えば、功利主義、センやロールズの主張など、教科書的な意味での復習にも適しているように感じました。
例えば、こんな指摘などは印象に残ります。

このようなロールズの「最も不遇な人たち」への視線を、逆向きに使ってみると興味深いことがみえてくる。つまり、ロールズは、社会的な成功もある種の「偶然の所産」にすぎないとみているのである。実際、商売で大きな成功を収めた人の多くは、もともと富裕な家庭に生まれ、親の資産とコネクションをフルに活かしただけかもしれない。学問的な成功を成し遂げた人も、もともと教育熱心で資産を十分な教育費にあてることができる家庭に育った帰結に過ぎないかもしれない。また、裸一貫から起業して大成功を収めた人も、単に確率的な半丁博打で偶然出目を当てた類の成功に過ぎないかもしれない。そのような人生の顛末への醒めた視線がロールズの議論の背後にはあるように思える。

p.152.

以下、印象に残った点をメモします。

一点目
効用という概念が重要な論点となっている点です。
性格には、この効用をどう定義するか。定義することによる問題点や限界、そして可能性はどのようなものがあるのか、という点などが議論されていきます。

「幸福」を量化したものとしての「効用」を関数で定義したことなど単なる形式的なことだ、と読者は思われるかもしれないが、これはとても重要な進歩なのである。実際、後で解説するが、この試みには経済学説史において「革命」の名がつけられている。     

p.33 .

そして、効用の話は、個人の「嗜好」や「選好」の話と絡まり合っていきます。

ここで強調しておきたいことがある。まず、効用関数は「特定の個人の内面」に依拠するものであって、すべての人間の共通のものだとは仮定されていない、ということである。効用関数は人によって異なる。筆者には筆者の、読者には読者の、独自の効用関数が内在しているわけだ。これは経済学において、完全なる「個人主義」のスタンスが貫かれていることをお意味している。もう一つ重要な点は、「効用の数値」はモノそのものに内在しているものではない、という点である。効用はあくまでも物との相互関係で人が感じるものであり、人間の側に存在している。  

p.34.

つまり、「人の嗜好の完全な同一性」=「完全な無個性化」がどんなとき受け入れ可能であるか、それを考えればいいということになる。それは間違いなく、「人が生まれた瞬間」、あるいはもっと観念的にいうなら、「人が生まれて来る前」を想定することであろう。人が生まれてくる前の時点、あるいは生まれた瞬間を起点として考えれば、人の嗜好や個性の同一性をある程度是認することができる。   

p.54-55.

結論をいうと、賭けに参加する人は得られる金銭に主眼を置いているわけではなく、賭けそのものに効用を感じる、とするのである。そのために、経済行動を捉えるうえで経済学が基礎に置いている「選好」という考え方に結び付けるのだ。

p.65.

二点目
ベンサムとピグーの功利主義の考え方が批判されながら、再提案されたり、結果として似たような議論がその後に登場してくる、という話が面白かったです。

この結果からすぐに分かるのは、「構成無私な理想的観察者」は自分の期待効用を最大化することをよしとするなら、それは(  )の中の「社会を構成する全員に関する期待効用の和」を最大化するのと全く同じである。これこそまさに、ベンサムやぴぐーが提唱した功利主義の考え方である。つまり、ハルサーニの望む社会は「効用の和」を「期待効用の和」に取り変えたこと以外は、ベンサム&ピグーの提唱した最良の社会と全く同じなのである。ここに、「すべての人の嗜好の同一性」を前提するとう致命的な逆転を持ったベンサム&ピグーの功利主義が、新しい装いで復興することになった。     

p.77-78.

この話は、ロールズの功利主義批判の論点の一部分は、過去になされたものでもあった、という話ともつながるようにも思います。「効用」「選好」などの概念が常に意識され続けてきたような印象を受けました。

以上のような功利主義への批判は、別に新しいものではない。効用という個人の内面の「快楽」に評価規準を置くことの限界はずっと意識されてきたのである。しかし、ロールズの議論の意義は、このような功利主義の難点を反面教師とすることによって、実際に独自の「正義の二原理」を構築することになったところになる。    

p.150.

三点目
ジニ係数の話のところで、それが本当に正しいのか?という議論ではなく、その前提を構成している考え方は何か?を問う発想が興味深かったです。一見すると割り切りが良すぎるようにも見えるのですが、よく考えると、前提となる価値観や社会観を吟味することは、対立しがちな議論をする上で不可欠なようにも思いました。いずれにしても、本書のスタンスを象徴しているように見えます。

次に考えるのは、これまでの章と同じように「社会的な選考」の問題である。つまり、「ジニ係数の意味で平等な社会を人々が望むとしたら、それはどんな選好に裏打ちされているか」、という問題。この問題の意義は、平等というのを単に「完全な富の均等分配」とみなし、それが最もよい社会だと断定してしまうのではなく、様々な分配に「よさの順位」を入れるとしたら、それがジニ係数で測られるのはどんな場合か、と広いスタンスをとっている。ここでは、ジニ係数が「社会の平等」ということを計測する指標としてふさわしいものであるかどうかは問題にしていないことに注意してほしい。平等性を評価する方法は、ジニ係数以外にもいろいろある。どれが「秒度を測るのにふさわしい指標」か、というのは人によって意見が分かれるところになるだろう。しかし、本章では、そういうことは問題にしない。ここでは、「仮に、人々のジニ係数のより小さな社会をより平等な社会だと考え、それを望むならば」、という仮定のもと、「では、その人々はどんな選好を心の中に備え持っているだろうか」、そういう(数学的な)問題設定をしているのだ、そう理解してほしい。       

126126

四点目
ケインズの経済学を説明することを通して、「伝統的な経済学」に対して疑問を促そうとしていることが伝わってきます。需要と供給で素朴に市場価格が決まるという発想に対しても、それでいいのかと言われているような気がして、色々と考えさせられました。

伝統的な経済学では「価格調整が生じる」と仮定する。つまり、リンゴがオレンジに比較して安くなり、オレンジがリンゴに比較して安くなり、オレンジがリンゴに比較して高くなるのである。これを「相対価格の調整」という。たとえば、両方が150円になったとしよう。このとき、Aさんのリンゴ生産で得る購買力は300円、Bさんのオレンジ生産で得る購買力も300円である。こうなれば、Aさんがオレンジを2個注文し、Bさんがリンゴを2個注文し、どちらも生産しただけ消費され、「供給余り」はなく、すべて丸く収まる。以上が「セーの法則」の仕組みである。    

p.184.

ここで賢明な読者なら、「どうして価格調整が起こらないのか」と尋ねるだろう。そう、もちろん起きる。しかし、それは先ほどのリンゴとオレンジの相対価格の調整とは異なるものである。すなわち、「貨幣の価格が高まる」という形式で起きるのである。150円だったリンゴとオレンジは、まもなく、どちらも100円になるだろう。つまり、デフレーションが起きる。デフレーションとは、すべての商品の価格が一斉に安くなることであり、貨幣の全商品との価格関係の変化なのである。186    

p.186.

流動性と貨幣とは異なる概念なのである。そういう風に理解すれば、現在の不況下のような不安定な状況になると、貨幣に流動性がいつまで憑依し続けるか分からなくなってくる。・・・いったんあたまを切り替えて、人々が欲しがっているのは貨幣という紙切れではなく、流動性という夜空に浮かぶ「月」なのだと理解できれば、日銀が貨幣の量をコントロールするだけで、不況を解消できないことに思い至ることができるだろう。   

p.190 .


五点目
終章、経済学を志した理由などが熱く語られており、読みごたえがありました。著者自身、ピグーやハルサーニ、ロールズが見逃していることとして「人間は誰もが子どもとして生まれてくること」「彼らの議論の前提に「個人」が大人をイメージしていること」を挙げています。
でも、生まれて来る子供たちが判断できるようになるまで時間はかかる。だからこそ、教育が重要な役割を果たすはず、と著者は考えます。
そこで、著者が注目するのが、教育学でもおなじみのボウルズとギンタスの「対応原理」です。

著者は自分の教育経験から見て、このギンタスらの解釈に共感しています。ただ、ギンタスらの解釈には「数理的モデル」がなく、単なる正当化なのかもしれないという不安が付きまとう。そのため著者自身が、対応原理を数理的モデルで説明しようとしているが、それが難しいようです。

経済学の勉強を続ける中で、このギンタスとボウルズの主張に何度も立ち戻った。しかし、そのたびごとに、彼らの主張を納得することにある種の困難を感じることになった。困難とは、彼らの主張に関しての「数学的モデルの不在」という点だ。彼らの論証は、筆者には非常に強い説得力を持っていた。だがそれは、筆者の生い立ちからくるある種の先入観に口実を与えるだけのものかもしれにあ。自分の内面に渦巻く感情的な憤怒を上手に正当化する単なる「誘惑」なのかもしれない。そんな疑惑を払しょくするには、最低限、数学的なモデルが必要である。       

p.216.

その試みはまだ成功していないそうですが、関連する研究は出てきていることがいくつも紹介されています。その上での、著者の現在の仮説はが紹介されています。

筆者が描いた描像は、次のようなものであった。人の行動選択というのは、未来を見通し合理的に計算しつくした末のものではなく、狭い経験と、限定的な論理から演繹の末なされたものであろう。さらにその論理体系というのは、親から声と伝承される性格が強いもので、決して経済行動を最適に導くような完全性や妥当性を備えたものではない。そんな描像である。   

p.227.

そして、最後の一文が非常にインパクトがあり、本書を象徴するようでした。

数理的な作業をはしょって結論を提示するのでは、宗教的信念や思想信条と変わりはなく、それでは他人を説得できないばかりか自分さえも説得できないからである。     

p.230 .

数理的に考えることや、経済学的アプローチの意味を考えたり、様々な経済理論を学ぶ意味でも、とてもありがたい本だと思いました。

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