感想メモ

【本】山本はるか(2018)『アメリカの言語教育-多文化性の尊重と学力保障の両立を求めて―』京都大学学術出版会.

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目次は以下の通りです。

序章 〈多文化性の尊重〉と〈学力保障〉の歴史から学ぶ
第1章 「平等性」の実現をめざす言語教育の源流
第2章 子どもたちの「言語経験」を重視する立場からの提案
第3章 ホール・ランゲージ運動における多文化性
第4章 言語科スタンダードの開発
第5章 言語教育における科学性と有効性
第6章 『ヴォイシズ・リーディング』にみる可能性
終章

p.14.

アメリカの言語教育の理論的変遷について、1950年代~2000年ころまでを分析した本です。私はこの分野に全く詳しくないのですが、色々と勉強させていただきました。

印象に残ったことを幾つかメモ。

一点目は、アメリカにおける言語教育の位置づけを、マイノリティの権利保障という文脈から論じている点です。実感としてよく分かるのですが、言語を通した権利保障とは何か、という点を追究する本書の根本的な問いにつながる意味で、興味深く思いました。「英語を第一言語としない学習者たちの社会参加の権利を保障するためには、英語を用いた学習を重視するべきか、それとも学習者の第一言語を用いた学習を重視するべきかという論点が浮かび上がる。」(p.121.)という話とも繋がっていくところかと思います。   

とくにアメリカにおいては、リテラシーをめぐる議論のなかで、文章を読み解くという行為と、マイノリティの子どもたちの権利が関連付けて論じられてきた。・・・(中略:斉藤)・・・多文化間の格差問題を解決するための教育政策の要として、言語教育が位置づけられてきたためである。      

p.14.

多様な文化的背景を持つ子どもたちの言語に関する権利を保障するというのは、言語圏を保障することであるのか、それとも教育格差や所得格差を克服するような言語に関する学力を保障することであるのかという対立軸が浮かんでくる。さらに、学習者が既存の文化を読み解き、異なる文化的背景を持つ個人とコミュニケートできるようになるために、言語教育の教育内容として、どのような知識やスキルを選択する必要があるのか、その教育内容をどのように長期的カリキュラムとして具体化していけばいいのか、その方策を明らかにすることが必要であると考えられる。            

p.27.

二点目は、多文化教育を批判的に捉えなおし、新たな言語教育のあり方を見出そうとしている点です。とりわけ、多文化教育が持つ排他性に対しては、何度も指摘がなされているように思います。その結果として、「他者」の視点や文化に学びつつ、個人的レリバンスと社会的レリバンスの両方を確保した授業・教材が必要だという話に繋がっていきます。

実のところ、多文化教育には次の四つの課題が見いだされてきた。・・・多文化教育が社会の周辺に置かれた文化への着目を促そうとするあまりに、その周辺に位置づけられた集団を比較的純粋で一貫性のある文化・歴史・アイデンティティをもつ存在として捉えがちであり、そのことは集団内における差異を見過ごす傾向にあるという課題である。具体的には、「内集団」・「外集団」という集団間の境界を固定化し、仲間ではないとされた外集団を「他者」として差別化することや、同一集団としての一致を強制する傾向を生み、集団内に存在する多様性を抑圧する状況があった。そのため、集団外には排他的、差別的であり、集団内の多様な声に対しては、抑圧的、黙殺的な教育実践となっていた。        

pp.10-11.

多文化教育においては、マイノリティの子どもたちの文化を尊重するために、多様な文化が反映されたテキストが選択されてきた。このことによって、子どもの個人的レリバンスを高めることができるようになった。しかしながら、ブルーナーが提起していたように、社会的レリバンスが保証されなければ、それは特定の言語文化の内部においてのみ機能する言語教育となってしまう危険性がある。テキストを読むという行為の中に、個人的にも社会的にも、意味を問い直すことを位置づけることによって、既存の社会構造の再生産ではなく、より構成や社会を築く個人に必要な学力を獲得する契機となるだろう。

p.226.

三点目。
言語の学力保障を論じる際の意味の多様性を整理し、それぞれの学力論に基づく事例や考え方について分析がなされています。これまでの私は、フォニックスとホール・ランゲージの二項対立的なものとして捉えてきたところもあり、この三つの分類だけでも参考になりました。

子どもたちに保障したい言語の学力として、三つの方向性を示すことができる。一つ目は、文脈に限定されない読み書きの知識やスキルである。英語で言えば「音素への気づき」や「フォニックス」など、文字を解読することを求めるものである。もう1つは、子どもたちが活きる社会で使用されている言語そのものである。子どもたちを取り巻く環境で実際に使用されている言語の実態に気づくことを求めるものである。三つ目は、他者とコミュニケートするための知識やスキルである。言語使用の現状を踏まえ、よりよい社会を築くための手段として言語の使用を求めるものである。これら三つのどの学力の獲得をめざすのかによって、「学力保障」をめざす授業像が変わってくると考えられる。   

p.222.

四点目。
リテラシー獲得を論じるうえで、児童生徒の社会経済的背景とリテラシーの獲得の関係性について、色々な研究者が調査を重ねている点です。とりわけ、5章で中心的に論じられるキャサリン・E・スノーの活動の変遷を読んだ際に、印象に残りました。「所得格差によって引き起こされるリテラシー獲得の失敗を乗り越える方策を明らかにすること、低所得家庭の子どもにとって有効なリテラシー経験を明らかにして、家庭と学校が連携して子どものリテラシー獲得のための環境を改善するための指針を示すこと」(p.163.)が目指されていることが良く分かります。以下の文章など印象的です。

この調査結果は、スノーたちの期待を示すものであった。すなわち、家庭での質は低いものの、教室の質が高い条件ではすべての子どもがリテラシーを獲得していた。つまり、教室における質の高さは、家庭の質の低さを補うことが示されたのである。さらに家庭と学校は相補関係にあり、お互いの質の低さを補い合うことも明らかにされた。この結果を通して、スノーたちは学校教育に対する希望を抱いた。すなわち、コールマン報告依頼、家庭の所得の違いが子どもたちのリテラシー獲得の差異を生み出すという、学校の無力性を指摘する報告が多かったなかで、その違いを克服できる要因が学校に存在することに、子どもたちのリテラシー発達を促す可能性を見出したのである。

pp.167-168.

ただ、「追跡調査を通じて、スノーたちは自分たちの期待の非現実性を自覚する。」(p.170.)という話にもあるように、紆余曲折と試行錯誤の連続なのだったとは思われます。       

五点目。
フォニックスか、ホール・ランゲージか。という二項対立を超えるような視点を提供してくれている点です。初学者の私なりに理解したのは、構成要素的に言語を捉えるとしても、その目的に注目することで、各々の立場の違いが見えてくる、ということなのかなと思います。

スノーは、リテラシーを一貫して構成要素として捉えていた。このように捉えることによって、子どものつまづきを見極めることが可能となり、具体的な指導の指針を立てることが可能となるためであった。このリテラシーのとらえ方は、一見すると、例えばフォニックス派と呼ばれる立場、すなわち言語と知識とスキルに分解し、それを体系的に指導する指導法を推進する立場と親和性が高いように思われがちである。しかしながらスノーの「理解」概念に注目すれば、その内実はフォニックス派とは異なることが分かる。具体的には、スノーはホーム・スクール・スタディにおいて。「理解」を学習者が自身の既有知識とテキストを関連付けることによってみちびかれるものとして捉えることによって、「理解」概念の内部に読者を位置づけていた。このことによって、既存の言語に子どもが適応することではなく、既存の言語を子どもが受け入れつつ、自らの内部で構成することを重視する立場である。            

pp.187-188.

さらにスノーの読むことの教育理論を見ることで、構成要素的に捉える立場とホリスティックに捉える立場という対立軸で捉えていては見えてこない、新たな言語教育の立場を見出すことができる。すなわち構成要素的に言語を捉えるということは、言語を分解し、言語を指導するという視点だけを生むのではなく、子どもの言語発達の全体像を捉えながらもつまづきを生み出させないための方途を導き出すという意義が導かれると言える。

p.188.

最後に、日本の国語教育への提言がなされている点です。
私自身、アメリカ社会科教育史をやっていることもあり、本書に出てくるレリバンスの議論は比較的なじみ易いものでした。一方で、個人的なレリバンスや社会的レリバンスと日本の国語教育に距離があるのだとすれば、日本の国語教育がどのような文脈で何を重視して論じられているのか。そこについても学んでいきたいなと思いました。

日本の国語教育に対して、アメリカの言語教育に関する理論と実践の蓄積をふまえると、次のことを問う必要があるだろう。それは、子どもの生活を取り上げようとする際、それが目の前の子どもにとって本当に日常の生活となっているのか、子どもの生活に近づくふりをして、人為的意図的な言語生活を子どもに押し付けていないかを問うことである。これは個人的レリバンスの視点から、国語教育を捉えなおす視点である。また逆に、社会的レリバンスの視点から考えてみると、国語科教育で扱う教育内容として、例えば解釈の揺れる文学作品を取り上げることが挙げられる。さらに、子どもの生活との関連性を問うだけでなく、子どもがさまざまなテキストを読んだり、その世界で描かれている作者の視点や、時代状況を読み取ったりするなかで、子どもが自らの生活を捉えなおす視点をもつことができるような実践を行うことである。      

p.229.
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