感想メモ

坂本旬他(2020)『デジタル・シティズンシップ――コンピューター1人1台時代の善き使い手をめざす学び――』大月書店.

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目次は以下の通りです。

第1章 デジタル・シティズンシップとは何か
第2章 情報モラルからデジタル・シティズンシップへ
第3章 我が国の教育情報化課題とデジタル・シティズンシップ教育
第4章 デジタル・シティズンシップ教育の実践

本書では、「デジタル・シティズンシップ」やその教育のあり方についての説明がなされています。その際に、日本でおなじみの「情報モラル」の授業との対比で語られる場面が多く見られます。

日本の「情報モラル」の授業で、デジタル市民になるためにTwitterを活用する授業を行ったという話は聞いたことがない。典型的な「情報モラル」の授業は、TwitterなどのSNSの不適切な投稿事例を紹介し、その危険性を教えるものである。「情報モラル」教育の役割はそこまでであり、実際にコンピューターを用いてTwitterを使った創造・協働・共有の仕方を教えることはない。
この話を聞くと、デジタル・シティズンシップはSNSの危険性を教えない教育なのかと思う人もいることだろう。この記事にはISTEの情報教育基準「デジタルシティズンシップ」の内容が紹介されている。それによると、デジタル市民は、相互に接続されたデジタル世界で生活し、学習し、働くことの権利、責任、機会を理解し、安全で合法的、倫理的な方法で行動し、模範を示すことだとされる。そしてデジタル・メディアの力を活用して、社会正義と公平性をめざした活動をするという。デジタル・シティズンシップは何よりも子どもたちの責任感や合法的で倫理的な行動を中心に置いている。しかし、そのための教え方や考え方が「情報モラル」教育とは異なるのである。

pp.4-5.

情報モラルが消極的倫理や自己の内面(道徳的心情)を問うことが多い傾向に対して、デジタル・シティズンシップは積極的倫理の立場をとり社会性(公共道徳)を問う傾向がある。

p.78.

このように、何らかの典型事例の不適切性や危険性の紹介に終始する情報モラルの授業に対して、シティズンシップは、子どもたちを取り巻くツールと権利や市民としての態度や行動などを問い、最終的に使いこなすことを促す、といった感じかと思いました。

この考え方の違いの背後には、「保護主義からエンパワーメント主義への転換」というのが大きく影響しているようです。

ユネスコはOECDよりも早く、2016年にデジタル・シティズンシップ教育に関する「ポリシーレビュー」を公開している。それによると、「教育政策を担う数多くの政治家や行政担当者は、子どもたちのリスクを少なくするICT教育から、子どもたちがICTを効果的かつ責任をもった使い方ができるように、子どもへの意識付けと批判的思考の育成を支援する方向へ政策を転換させてきた。もっとも新しいアプローチは『デジタル・シティズンシップ』への支援政策である」と書かれている。つまり保護主義からエンパワーメント主義への転換なのである。       

pp.32-33.

スマートフォンを持ち始めた子どもたちは、すでに公共空間で生きることを余儀なくされている。しまし、彼らはプライベートとパブリックの違いやそれらが意味することについて、学ぶ機会をほとんど持っていない。インターネットの安全性を中心とした保護主義的な教育だけでは対応が困難である。だからこそ、欧米を中心に世界中の国々が保護主義からエンパワーメント中心のデジタル・シティズンシップ教育へと進路を変えつつあると言える。シティズンシップ教育としての「公共」は本来高校で初めて学ぶのではなく、スマホを持ち始める前から一貫性と体系性をもって教えられるべきである。  

p.36.

まさに、生徒が身近に持っているスマートフォンやインターネットの存在を前提として、それらとどう向き合っていくかが問われる。これらの話は、学校のICT活用の論点と地続きな形で展開されます。
そのような視点から見ると、日本において、一方では、ICT活用をし、他方で携帯電話の持ち込みを禁止する態度というのは批判されています。実際、「携帯電話の端末を学校に持ち込むことと、ICTの学習利用とは別問題であると分断するような姿勢を見せる生徒指導の文脈に、おそらく、創造性の育成が入り込む余地はないだろう。」(p.80.)と述べられています。

では、どんな授業が想定されているかというと、アメリカの事例を中心に紹介がなされていたり、新しい授業例が開発・提案されたりしています。

コモンセンスによる高校1年生向けの教材ビデオ「オンラインのヘイトスピーチに対抗する」を比較の対象としよう。この教材ビデオは、何人もの子供たちが、ヘイトスピーチについての個人的経験や意見を語るという形式で作られており、「情報モラル」教材ビデオのようなドラマ仕立てではない。登場する子どもたちの人種や民族は多様である。彼らはヘイトスピーチとは何か、どんな問題がおこっているのか、そして自分はどうしたいと考えるのか、さまざまな意見が表現される。このビデオの開設には、生徒自らが課題を認識し、どうすればよいのかその方法を考えさせることが目的だと書かれている。アメリカでは、このように子どもたち自身が意見を主張することをボイスと呼ぶ。      

p.6.

まず、デジタル・シティズンシップ教育の教材として著名な米国のコモンセンス・エジュケーションを紹介する。・・・(中略:斉藤)・・・。動画教材では、登場人物が良い使い方や良い活用をするための約束を紹介したり、現実的なデジタルジレンマを体験に基づき語ったり対話したりしている。題材は、プライバシーやセキュリティ、長時間利用、いじめの問題以外に、人権問題や市民活動、ヘイトスピーチなども扱っている。デジタル・シティズンシップ教育が、単に個人の安全な利用のためだけに学ぶものではなく、ネットという公共空間でのふるまい、作法を学び、「人権と民主主義のための善き社会を構築する市民となるための市民道徳教育」であることが理解できる。           

p.127.

さらに、日本の情報モラルの教材などについても、批判的に検討がなされています。「クリティカルな視点」の有無が重要な論点になってくるように思います。

たとえば、個人情報が外部に漏れたとしても、直ちに実害があるわけではないのではないか、といった議論や、ショックを受けパニックに陥るのではなく、論理的に考え冷静な対処が求められるのではないかという指導者からの示唆は、ほとんど見られない。また警察に相談したらどうなるのか?被害がないならば操作はできないと断られるのではないか?消費者庁の相談窓口に連絡する程度しかひとまず対処の仕様がないのではないか?実害がないのならそもそも対象は不要であるのではないか?といったクリティカルな検討などは行われないのである。      

p.68.

おおまかにはこのような形で紹介できる気がするのですが、本書で紹介される論点は多岐に及んでおり、勉強になります。
特に、学校現場でICT活用をどう普及させていくかという話に関して、研究授業で無理して頑張って使うのではなく、日ごろから「電気や水道と同様に」当たり前のように使うことが重要であるとも指摘されています。それがむしろ、トラブル対策になると。

数は限られているものの【A増強】段階の踊り場に至った(持続的に扱う情報量が多い状況を維持できている)学校にインタビューすると、必ずと言っていいほど「普段から自然に使っています」という台詞が返ってくる。・・・(中略:斉藤)・・・①授業立案にそれほど負荷がかからないこと、②毎日のように授業でICT活用していることが効果を実感させていること、③教員も児童生徒も普段使いで操作スキルが底上げされているので、利用場面でのトラブルがほとんど起こらない、ということになる。

pp.99-100.

最後に、印象に残ったのは、ICT活用をめぐる日本と欧米の授業スタイルについての対比の話でした。
教師の主導により非常に丁寧な説明によって進めるICT活用の授業が日本には多い一方で、欧米では、学習者の活動を自由に進めてもらい、教師はそれを適宜サポートするような、個別化されたプロジェクト学習的なものが多い。
そして本書では、日本型の教師主導型ICT活用の授業に対して、批判をしているというか、授業をしていくうえでの限界を指摘しています。

日本の教員主導型ICT活用では、授業時間の大半を教員が統制し、短時間割り当てたICT機器操作もステップ・バイ・ステップで行われるので、慣れている児童生徒にとっては冗長で無駄な時間になってしまい、一方で慣れない(低スキルの)児童生徒にとっては、いきなり的確な操作を求められることが大きなストレスになる。数分単位の余裕のない授業展開では、些細な操作トラブルやエラーが致命的な時間朗品となり、教員負担をより過剰なものにする。これに対して、学習者中心の展開では児童生徒に段取りが任されるので、単なる放任主義では糸の切れた凧のようになってしまう恐れがあるが、児童生徒の側も、比較的長い作業時間を自分で配分しながら進めることに慣れており、文房具のようにICTを普段使いしているので一般的な操作ではほとんど致命的なエラーは生じない。特に騒がしいくなることもなく粛々と作業が進み、教員の負担はそれほど高いようには見えない。こうした学習者中心の作業形態は、一朝一夕でできるものではなく、普段からの授業スタイルと自己調整能力をつけさせるような習慣づけが有効に作用しているのだろう。このように、従来の教員主導型の一斉授業にICT活用を持ち込むと教員負担が過剰になることから、授業実践が敬遠されがちになるのは無理もない。教員指導力を求めても過去20年以上にわたって十分な普及がなされないのは、一斉授業とICT活用のマッチングに理由があると考えるのがむしろ妥当であろう。

p.105.

こう考えた時、ICT活用を進める授業というのは、授業方法自体を大きく変革させていく可能性があるのかもしれません。
もちろん、ここで言われる「学習者中心」の授業スタイルは欧米でも日本でも、ICT活用がなされる前から伝統的に見られた系譜の一つだと思います。また、皆で何かを一緒に考える日本的な授業スタイルに合うような、ICT活用のできる授業テーマもあるとは思います。

ただ、より生徒一人ひとりの自己調整力を求めるようになるというのは、確かにその通りかもしれません。

学校の授業におけるICT活用の重要性や、インターネットを前提とした社会について生徒と批判的に議論していく重要性について、勉強することができました。

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