感想メモ

マイケル・W・アップル&ジェームズ・A・ビーン編著:澤田稔訳『デモクラティック・スクール:力のある学校教育とは何か 第2版』上智大学出版.

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目次は以下の通りです。

第1章 なぜ、いま、デモクラティック・スクールなのか
第2章 フラトニー小学校:民主主義への大いなる旅路
第3章 「『気持ち』わかってくれてんじゃん」:カブリニ・グリーンにおける民主主義とカリキュラム
第4章 このクラスの雰囲気が私たちを特別な存在にした
第5章 作業訓練場を越えて:職業教育の再生
第6章 セントラル・パーク・イースト中等学校:困難なのは実現することだ
第7章 デモクラティック・スクールから得た教訓

本書では、米国において、民主主義を軸に据えながら、学校運営や授業実践がなされている事例が複数報告されています。
訳者も述べる通り、「本書で描かれる所実践は、同国でも簡単に見つかるものではなく、まったく卓越した事例であるということである。これらは所実践を「アメリカの学校教育」などと安易に一般化して語ることはできない」(p.239.)とされるのですが、非常に興味深い実践が多く掲載されています。

この本の特徴としては、単に魅力的な実践を描くというよりも、実践をするうえでの、現実社会からの批判や抵抗を示し、それに対して学校や教師たちがどのように解決策を見出そうとしていったのか、場合によっては学校側が敗れたのか、などについて詳述している点です。
そういう意味で、民主主義教育を取り巻く大きな文脈と、実践上のディテールの両方を兼ね備えようとしている感じがします。
同時にあまりにも安易に「民主主義的」という言葉がキャッチフレーズとして使われることに対しても本書は警戒感を示しています。
以下の文章など印象的です。

民主主義的な学校に必要不可欠な構造と過程をとりあえず素描するだけなら、それは比較的手早く済ませることができる。民主主義的な学校を組織し、さらに、その意地に関わるということは、全く骨の折れる作業であり、また、対立・葛藤の絶えない作業である。結局のところ、現代社会においては民主主義が言葉巧みに飾り立てられているにもかかわらず、まだ常識的に、民主主義的な生き方は民主主義的な経験を通して学びとるものだと考えられているにもかかわらず、学校は目を見張るほど非民主主義的な制度的機関であり続けてきたのである。民主主義によって人間同士の協働の重要性が強調される一方で、競争-成績・地位・教育資源・教育プログアムをめぐる競争-を煽りたててきた学校があまりにも多い。民主主義は共通善に対して十分な配慮が行われるかどうかによって決まるものなのだが、あまりにも多くの学校が、ほとんど私利にのみ基づくような個性を強調してきた。

p.25. 

さて、印象に残った箇所を幾つかメモしておきます。

一点目は、現代の民主主義的な教育を構想する上で、過去の歴史を重要視している点です。
これは編著者のマイケルアップルが特にそうなのですが、私自身は非常に熱いものを感じました。
現代に取り組もうとしている取り組みが、過去の遺産に上にあることを実感し、歴史的に位置づけられるとき、過去の事例から学ぶことも多いし、(今も様々な障壁が多いゆえに)先人たちから勇気をもらえる部分も大きいということかなと思います。

教育及び学校における民主主義的な諸目的や実践のための一世紀にわたる闘いなど、全く存在しなかったのだということになるのだろうか。どのようにすれば、それほど簡単に、私たちの集合的記録を消し去るようなことができるのだろうか。「生徒の声」やテーマ中心カリキュラム(主題単元学習)といった概念がともに、初期の進歩主義的な社会改造主義者が唱道した問題中心の「コア」アプローチに根差すものであることを、私たちは忘れてしまうことになるのだろうか。・・・(中略:斉藤)・・・今日、協働的学習を話題にするとき、1920年代以来、民主主義運動の一部として、学校やコミュニティで行われてきた協働的なグループ・プロセスの作業を単純に無視できるだろうか。

p.12.

重要なのは、過去において民主主義的な方向性が強まった時期を、私たち自身が努力を重ねていく際の基盤となる一つの遺産として認識することである。

p.42.

本書で描かれた学校や教室が、伝統から完全に断絶してしまったわけではない。伝統に回帰する道もまた見出されたのである。今日の学校改革に関する取組のなかで、特に際立った悲劇の一つは、それにかかわる人々が、同様の精神に支えられた様々な取り組みに関する連綿と続く価値ある伝統についてほとんど無知であるということである。不幸にも、教育者も市民も同様に、より民主主義的な学校の建設を試みて成功を収めた数多くの例についての集団的記憶をほとんど失ってしまったかのように見える。進歩主義的学校改革の歴史を見れば、非常に多くの教員や管理職・教育行政官、あるいはコミュニティ活動家などの人々が、専門家としての自分の生涯を、教育的にも社会的により対応豊かな仕組みの構築に費やしたことは明らかである。こうした人々による成功事例とのつながりを取り戻し、そういった人々がいかに困難な問題に対処し、それらを乗り越えたかという点を再認識することから、私たちが得るものは大きい。こうした先人の方の上に、進歩主義的な傾向を持つすべての教育者は立っているのである。同時に、こうした人々がもっていた説得力あるものの見方や、その不断の努力に触れることで、私たちは、本書に描かれた教育者たちによって現実の学校で今行われていることが、長く大きな川の滔々たる流れのごとき民主主義の伝統を引き継ぐものであることを思い起こすのである。教育者としての私たちの任務は、その川がこれまで通り流れていくように保つことであり、この国のすべての子どもたちがこの民主主義のプロセスに参加できるようにすることである。

p.229-230. 

二点目は、教師同士で情報を共有していくこと、つまり自分の実践を記録し発信することや、他の教師の実践を知り、学ぶことの重要性を強調している点です。
本書で紹介される実践は、ある意味でどこの学校でも見れるものではないからこそ、全米レベルでのネットワークや情報のリソースが重要になってくる、ということかと思います。

159 インターネットは、絶えず増え続けるウェブサイトと検索エンジンのおかげで、多くの点で教師の助けとなった。一部の教員にとっては、インターネットより、上に述べたような仕事をしながら、自分のやり方を維持するための1つの道が開かれるのである。教師が自らの仕事を広く公にすると、それによって、より多くの教員が「学校実践」の別の方法を知ることができるようになる。10年前には、似た目標に向かって仕事をしている他の教員をオンラインで見つけるなどということができる教員は一人もいなかった。いまや、教師たちにとって、民主主義的な授業の背後にある哲学について考察を深めたり、授業を行う上での実践的なアイデアを見つけたり、他の教員たちがそうした取り組みのなかで団結していることを知って、仕事に必要な活力を手に入れたりするうえで、数多あるウェブサイトが助けとなる。現在では、民主主義的な教室とはどのようなものなのかを「見聞する」ことが可能となっているのである。

p.159.

この話は、逆に言えば、現在の米国で(おそらく日本でも)進む、「労働強化」の問題性を示すものともなっています。
セントラル・パーク・イースト中等学校の事例でも出てきますが、民主主義的な実践を行う上で、教師自身が自分の専門性を高めるための時間を確保できることが、とても重要になることを示している気がします。

教育に携わる人々がまさに直面している現実的なジレンマの一つは、この国の学校システムにおいて、進歩的学校教育が人々に一定の感化を与えつつありながら、今実際に何が行われているかを知ることが困難なことである。それは、一つには、単に時間の問題である。つまり、労働強化によって(Apple 1986,2000)、自らの成功例について各時間を見つけることが難しいだけではなく、自分以外の人々が各自の学校を変革するために行っていることについて読む時間を見つけることさえ難しくなっているのである。とはいえ、私たちが自分たちの物語を共有することは、極めて重要な仕事である。このことは、より対応力豊かな学校を築くという仕事が最終的に報われるとするならば、私たちに何ができ、どんな落とし穴を避けるべきか、また、現実はどのようになるのかといった点について私たちが互いに教えあうことが重要なのと同じである。

pp.230-231.

三点目は、学校内での改革が、学校外での社会運動と連動していくというか、地続きで起こっていくべき点を示していることです。
第2章で紹介されるフラトニー校の実践は、それを顕著に表していると思われます。

フラトニー校での経験は、どんな学校であれ特定の学校の改革が行われる際に、学校区規模(市全体)でのカリキュラム改革や構造的な変革といったより大きな文脈を背景にしなければならないということを教えてくれる。さらに、学校の改良は、一般に社会の変化に結び付いていなければならない。大きな学級規模、教員が(プログラムを)計画する時間の不足、学校外の、より広範囲にわたって存在する貧困や子どもの虐待や失業といった諸問題、これらをすべて人類全体が必要とするものに対して、個人的な利益が圧倒的に優先されているという状況を反映している。

p.86.

 最後に、フラトニー校やこの学校に類似したほかの学校のプロジェクトが成功するかどうかは、この社会全体のなかに正義と平等とを実現しようとする様々な取組と強く結びついている。私たちの努力が実を結ぶようにするためには、地方レベルでのビジョンと国家レベルでのビジョンとの両方がなければならない。私が担当している第5学年の子どもたちの意識が、ゲイやレズビアンの権利を守るためにワシントンで行われたデモ行進と、多くの点で結びついているのとまったく同じように、フラトニー校をはじめとする学校の未来は、(学校を超えた)より広範な社会運動と結びついているのである。私たちの学校、私たちの都市、私たちの子どもが、現在巻き起こっている貧困・不平等・暴力という風潮のなかで生き残っていくためには、私たちが学校だけにもとめているものを社会全体に求めるような社会運動が不可欠であろう。

86-87  86-87  

四点目は、民主主義的な教育を行う上で、教師の労働時間や学校の施設設備を含めた、多くのリソースがあることが重要であるという点です。
民主主義教育を行うことは、単に授業方法やカリキュラムの問題ではなく、学校運営や教育行政との関わりが濃いことを実感させられます。
ここら辺の話は、『現代アメリカ貧困地域の市民性教育改革:教室・学校・地域の連関の創造』を読んだときのことを思い出しました。

私たちが本校を設立した時よりもさらにいっそう明らかになったことが一つある。それは、多くの教員や保護者の奮励努力がどれほどの水準であったとしても、フラトニー校のようなプロジェクトが長期間にわたって維持できるのは、適切な資源が存在する場合のみだということである。任意主義と週70時間労働が、まったく長時間にわたって続く可能性があるのである。不幸にも、学校区・州・連邦のどのレベルでも見られる「資源を教室に戻そう」という「言葉が聞かれるにもかかわらず、その資源が劇的に削除され、その結果、相当数の人員削減が行われているという事態を目にしてきた。体育や音楽の教員や技術支援職員がいなくなり、この数年にわたって図書館司書もいない。クラス担任の教員が準備のために開けられる時間は週に40分ほどで、これは、カリキュラムの統合(合科関連カリキュラム)や子供中心のプロジェクトワーク、真正の評価といった複雑な考えに学校として継続的に与していくためには、到底受け入れがたい時間である。質の高いポートフォリオを維持し、子どもたちのワーク・サンプルを綿密に評価するという最良の意図も、適切な時間が、学校時や学校年間スケジュールのなかに組み込まれていない限り意味がない。

pp.88-89.

1960年代に見られた立派な代替教育校(オルタナティブ・スクール)の大半は、その創設に携わった人々が学校を離れると閉校されてしまった。フラトニー校を含めて、このような学校の多くが成功を収めたのは、多くの人々が膨大な時間と労力を費やして現体制に反対した結果である。この種の取組は、学校から学校へとたやすく伝わっていくものではない。したがって、私たちは、公立学校や教職専門性における変化を許容し推進するような構造を制度化しなければならない。たとえば、複数の保護者に手当てを払い、学校レベルに基礎をおいた組織を作るまとめ役になってもらえば、保護者の関与が実質的に促されることになろう。また、標準化された到達度テストに依存しない評価手続を、学校区レベル、州レベル、全米レベルで(たとえば、チャプター・ワンの学習計画作成のために)採用することで、より全人的な評価規準を用いる方向に教育を向かわせるべきである。さらに、学校カレンダーの規準となる州の規定に関する変更は、学校が共同作業や計画立案により多くの時間をさけるように、より柔軟に行われるべきである。最後に、新任教員や経験豊富でも苦労している教員を支えていくためのプログラムは、個々の学校が法外な時間や資源を費やさなくても済む容に、学校区規模で作成すべきである。

p.85.

五点目は、本書で示される実践の数々が、「物語」的なスタイルであるということです。訳者が解説で述べている通り、これらの物語的スタイルは実践記録とも似た点があると思います。同時に、物語だからこそ示せるリアリティや共感性のようなものがとても大切になるのだということを再認識しました。
ここら辺の話は、『社会科ワークショップ』を読んだことを連想しました。

第一に、日本の各学校・教員も、その実践論考に「物語」的スタイルをもっと導入することを考えても良いのではないかという点である。本書に見る教育実践の物語の特質は、徹底して具体的な文脈に埋め込まれた徹底して具体的なエピソードを、その意味で、交換不可能な唯一の出来事を、読者が眼前に思い浮かべられるような臨場感をもって描きながら実践を紹介し、その意味について考察しているというところにある。

p.274.

六点目は、民主主義的な実践が追究される過程で、教科横断的な学び、さらには、教科を統合したような学び方がよく見られるという点です。特にセントラル・パーク・イースト中等学校の事例が象徴的だと思われます。
また、本書で紹介される実践の多くが、教科ごとでの内容というよりも、特定の主題やテーマを追究していくような、プロジェクト学習であることも影響していると思います。同時に、編著者のアップルが、最初の方でコアカリキュラムの歴史に触れていた点も、本書に示される事例の数々と繋がっているのだと理解できました。

本校は、第7学年から第10学年までの全ての生徒に、共通のコアカリキュラムを提供しており、それは主要な2つの領域を中心に編成されている。つまり、学校日のうち半分は数学/理科が中心となり、残り半分は人文(芸術、歴史、社会及び文学)が中心となっている。

p.212 .

次に重視されるのは、行われる授業の数だけでなく、クラスサイズを小さくすることである。この目標を達成するために、この学校に充当された教育資源の大半を、コアカリキュラムの授業に集中させることにした。

p.214.

カリキュラムの統合はそれ自体一個の目的であるが、一方で、それは教員の関係にも重大な変化をもたらす。教員たちはかつては各自の作業訓練場のなかに孤立し、時には生徒の取り合いをしたこともあったのだが、今では力を合わせてカリキュラムや複数学科横断的なプロジェクトの計画を立案する。その結果、教員たちは学校全体の仕事だけでなく、個々の生徒の学校全般にも、従来よりも多くの力を注ぐようになっている。

p.178.

このような広義の意味でのコアカリキュラムの発想を見るとき、教科の役割について、改めて考えさせられます。
「進歩主義的な」「民主主義的な」教育(アップルはこの両者を時として区別していますが、それは置いておくとして)を追究していった際に、教科の枠組みというものが弱まっていく場面が時折出てくる。これは、これらの改革が、学校全体で行ったり、地域と連携したり、教員研修的な側面も内包しながら実践していく必要があることとも関わりが深いとは思います。
同時に、米国の進歩主義教育の系譜に惹かれる一定数の方々が、日本でいう総合学習の重要性を指摘し、研究や実践をされていく理由もわかる気がします。

だからこそ、教科とは何なのか。
私のこれまでの研究関心的にも、米国教育史を社会科教育史と重ね合わせてみてしまう時がよくあります。ゆえに色々と考えさせられますし、学びのきっかけにもなるなあと。
また、ここら辺の話は、私自身が米国社会科教育史とコアカリキュラムの研究などに少し関わっていることもあり、そちらでも深めていきたい問いではあります。

勉強になりました。

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