読書メモ

【本】宮野尚(2021)『ウィネトカ・プランにおける教職大学院の成立過程』風間書房.

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目次は以下の通りです。

序章 研究の目的と方法(研究の目的;研究の方法)
第1章 ウォシュバーンによるウィネトカ・プランの構想
第2章 実践開発を通した教師の力量形成
第3章 教師教育の組織化と教職大学院の成立
結章 専門職意識の形成から研究ネットワークの構築へ

イリノイ州ウィネトカの公立学校において、大胆かつ高度に行われた教師教育の営みについて、その背景や成立過程を詳述した本です。

読んでいく過程で、20世紀前半の進歩主義教育の複数の主張の立場についてや、当時の米国の教師教育をめぐる一般的状況についてなどもわかり、大変勉強になります。

そのうえで、本書独自の再解釈も随所で展開されており、刺激的です。

ウィネトカの教師教育の展開については、本書で詳述されているのですが、改めてウィネトカの事例の凄さには驚いてしまいます。

(ウォシュバーンが来る前からの前史はあったとは言え、)ウォシュバーンによって、研究的視点に目覚めていく公立学校の教師たちの姿はもちろん、その後にインターン性を受け入れたり、夏季教員研修プログラムを開発したり、最終的には教職大学院の設立にまで至る。

関係者のとんでもないバイタリティを感じます。また、大学院設立や研修プログラムなどでは、ウィネトカの関係者が、世界各地とやり取りをしているのが分かるのですが、連絡の迅速さやアンテナの高さなどには、驚くばかりです。

改めて、ウォシュバーン氏の魅力というか、周りの知的好奇心や探究心をかきたてる力はもちろん、企画・運営能力がすごかったのだろうと思わされます。それでいて、「ウォシュバーンは、学校改革の統率者というよりも、教師を自己変革へと促す教師教育者であったという方が妥当である」(p.278)にも納得できるのですが、だからこそ、すごい方ですよね。

定期的に実施されていたとされる「学年会議」において、どのような話が語られていたのか。ウォシュバーンは、公立学校教師たちをどのように勇気づけ、成長を促していたのか。本書でも語られているところではありますが、その様子に興味を惹かれました。

読んでいて一番印象的だった点をいくつかメモ。

一点目は、ウォシュバーンにしても、ウィネトカの教師にしても、進歩主義的な授業理論や理念を、言葉だけで理解されるとは思っておらず、経験や体験を通して理解することが重要だと考えていた点でした。

やはり、一定期間、実践に触れたり、その場で試行錯誤をしたりする場面が重要になるのが分かります。

また、指導者が実演したり、授業者本人が葛藤する場に立ち会い共に考える場面など、教師の学ぶプロセスに配慮することが重要なのだと強く実感しました。

二点目は、「時間割」という発想が、従来の定説を書き換える可能性を持っているという点です。

従来は別々にやっていると思われていた学習が、実は時間割上は分けられていなかった、ということもあるのだということが、本書を読むとわかります。例えば、

従来、ウィネトカ・プランの特徴は、系統的な知識・技能を個別に学習させる「コモン・エッセンシャルズ(個別学習)」と、子どもの個性と社会性の形成を目的とした「集団的創造的活動」の二つの活動領域に見出されてきた。それらは、教師と子供とが実施する活動の方として時間割に明示され、同プランの教育方法を形作っていたと考えられている。しかしながら、ウォシュバーンによれば、二つの活動領域は、あくまでも「教師の頭の中」のみ把握されるものであり、子どもは両者を区別することはできず、その存在にすら気づいていないという。そのことから活動領域は、少なくとも時間割上に明示されている活動形式や、教師が模倣すべき教育方法として存在していたものではなかったと考えてよいだろう。

pp.82-83.

  こういった指摘も、まさにその一例だと思います。

授業者が念頭に置く概念としては存在していても、児童生徒から見たら、別々に授業がなされているわけではない。そういうことって、他にも多くあるのだろうなと思わされました。

また、本書の序章でも論じられている通り、教育実践史的な視点と、教育行政史的な視点の交差する点として、(上記のような時間割を一例とするような)教師という視点への力点が弱かったのだという点も実感しました。

三点目は、これは本書の主張の要点に近いと思いますが、教師教育をするうえでの、教師教育者自身の学びや変容を見ていく必要があるという点です。

教師教育において、教える側と学ぶ側の非対称性を超えた、双方にとっての学びというのがあるのだと感じました。

まあ、それを意図的に求めようとするウィネトカの先生方のどん欲さには驚くばかりではありますが。

ウィネトカ教職大学院は、「養成」と「現職研修」の段階を経てきた教師が、教師教育者となり自己教育を引き起こす「高次の現職教育」の場として組織・運営した機関であった。この点において同教職大学院は、20世紀前半に成立した大学ベースの教育系大学院とは根本的に異なる。

p.280.     

 ですので、この結論(の一部)にも非常に納得しました。

最後に、本書のあとがきを読んで、本書の一番の主張を見たような気がしました。
一通り読んだ後に、あとがきを読んでしっくりくる感じがとても印象的でした。

行政や学者が把握できるのは、学校において実際に生じている現象のごく一部にすぎず、教師は理論家されていない多くの現象を常に感知している。また経験豊富な教師は、未だ言語化されていない力量を身につけており、さらに日々それを更新しているだろう。今まさに、教職の専門家である教師が主体となって、そうした教育現象や力量などについて探求し、教師教育を組織化できるような場が求められている。

p.285.

大変勉強になりました。

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