感想メモ

【感想メモ】小柳正司(2020)『デューイ実験学校における授業実践とカリキュラム開発』あいり出版.

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出版社Web→デューイ実験学校における授業実践とカリキュラム開発 (airpub.jp)
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目次は以下の通りです。

序章 デューイ実験学校はいかなる学校であったのか
第Ⅰ部 実験学校の開設に至るまでの経緯
第1章 デューイのシカゴ大学着任と実験学校の原イメージ
第2章 実験学校の開始に向けて-実験学校開始前の授業構想とカリキュラム案-
第Ⅱ部 授業実践の展開
第3章 試行錯誤-実験学校の最初の6か月-
第4章 カリキュラム開発に向けた試行-1896-97年度の授業実践-
第5章 教育課程の骨格の成立-1897-98年度の授業実践-
第6章 教育課程の完成-1898-99年度の授業実践の展開-
第Ⅲ部 補稿
第7章 実験学校創設の背景にあったデューイの教育学構想-師範教育から教育科学の確立へ-
第8章 デューイ実験学校の影の立役者の思想と行動-ジョン・デューイの妻アリス・チップマン・デューイと女性の自立-

実験学校の様子が事例やエピソード豊富に語られており、実験学校の実践がなされた背景や、関わる当事者の考えを知る上でも、非常にわかりやすい本です。

本書が、実験学校の定説というか、一般的なイメージを変えようとしていることは、導入からわかります。

この学校は、子どもたちが思い思いに好きな遊びや活動をしていればそれがそのまま学習だとするような牧歌的な児童中心主義ではなかった。そこでは、子どもたちに何をどこまで学習させるかという教育目標の明確な設定があり、それに即した教材・教具の綿密な開発と、さらには発達段階に即した系統的な教育課程(Course of study)の編成がデューイの指導のもとにそこの教師たちによって念入りにおこなわれていた。

p.2.

実験学校で実際に教育活動の任に当たり、日々生じる実際上の諸課題に直接対処したのはこの学校の教師たちであって、デューイではなかったという事実が忘れられがちである、デューイはあくまでも理論家であり、彼が著書や論文で書いていることがそのまま実験学校で行われていたと考えるのは早計である。

pp.2-3.

このように本書では、実験学校における「教師たち」に焦点が当たっています。デューイの教育理論の特徴やその形成プロセスなどの話も各所に出てきますが、その話と教師たちの理解や実践とを別物として論じるスタンスは、本書で一貫している気がします。

また、実験学校に関する神話?への批判として、実験学校のカリキュラムに一貫性があり、教師の側から見た深い専門性に依拠していることが強調して論じられていました。

学習は活動の中で活動を通しておこなわれるというのは、学習がその時々の偶然にまかされているということではなく、教師の側にあらかじめ何をどこまで学ばせるかについての「一貫した学習課程」の設計があって、その上で、「料理」とか、「裁縫」とかの活動が行われていたのである。P.6.

p.6.

このようにデューイは、教育内容の科学的な順序性・系統性と子供の興味の発達とを密接に関係づける形で教科の統合と相関を考えている。すなわち、学習活動は子どもの興味や関心の赴くままに展開するのではなく、むしろ学習活動それ自体が持つ科学的な順序性や系統性に従って学習活動を展開すべきであり、そのような科学の系統性に沿った学習活動の展開にともなって、主題に対する子どもの興味が発展していくのだと主張している。デューイはこのような学習内容の科学的系統性こそが子どもの興味の発展を促し、それがカリキュラムの統合と相関を導く意図になると考えている。

p. 77.

この学校においては、子どもたちの学習活動は真理の発見と解明に従事する科学者の研究活動と同じ精神において組織されている。それは理科だけにかぎらず、地理や歴史の学習においても同様である。この点こそ、デューイの実験学校の授業実践を牧歌的な児童中心主義の教育や後の「プロジェクト・メソッド」「生活学校」「地域社会学校」などの諸実践から区別する決定的な点(クリティカル・ポイント)なのである。

pp.12-13.

一般に、デューイの実験学校といえば、子どもの興味や活動を尊重するあまり、学力の形成はおろそかにされたと考えられがちである。しかし、実際はまったく逆だったと言っても過言ではない。デューイは、実験学校がその開始にあたって最も中心に置いていた研究課題は、初等教育の教育内容の水準をいかに引き上げるかということにあったと述べている。今日流の言い方では、教育内容の「現代化」である。

p.90.

このような主張は、最初の方にあった「この学校は、子どもたちが思い思いに好きな遊びや活動をしていればそれがそのまま学習だとするような牧歌的な児童中心主義ではなかった。」という話と一貫しているように思います。同時に他の進歩主義実践と、デューイ実験学校の内実とを区別しようとする視点も見受けられました。

印象的だった話を二点メモ。

一点目はごっこ遊びの位置づけについてです。
戦後初期社会科にも出てくるごっこ遊びですが、デューイの考えから見た時、望ましいごっこ遊びの条件というのは、かなり限定されていたように読んでいて感じました。あくまでも社会研究としてのごっこ遊びとして成立していないと、その条件を満たしていないこと、子どもの関心を引き付けるから、という安易な理由で授業化してはいけないということ、がよくわかります。

ごっこ遊びの魅力として、子どもたちが楽しそうに取り組んでいる様子に焦点があてられることもあるように思うのですが、そういうスタンスを批判していることが良くわかります。そういう意味でも、授業者側から見た一貫した教育方針やカリキュラム設計の原理があるという点にも納得しました。

子どもの活動については、デューイはそれが単に子どもの関心を引きつけるからとか、子どもが喜んで取り組むからとかいう理由でそれを出発点にすることに反対している。子どもの活動は、最初から「社会的なもの」、つまり実際生活の中で目的(あるいは意欲)をもって取り組まれる活動でなければならないとされている。だから、デューイは子どもたちが教室で「お店屋さんごっご」をして、紙のお金で買い物をしながら計算問題の練習をするというようないわゆる経験学習なるものは否定している。こうした「ごっこ遊び」は、一部の子どもを除いて、大部分の子どもたちにとっては「ゆがんだ欲求に火をつけることにしかならない」と断じている。デューイが想定している活動というのは、「ごっこ遊び」のような子ども向けの真似事ではなく、実際に子供たちが学校で自分たちの昼食を準備したり、教室で自分たちが使う備品を自分たちで作る大工仕事に取り組んだりというように、実際生活上の必要性をもった本物の仕事(オキュペーション)を子どもたちにおこなわせることである。そして、そうした本物の仕事の中で、子どもたちは必要な材料を実際に商店に出向いて購入し、数量や金銭の計算をし、支払いをするということがおこなわれる。

p.70.

デューイの実験学校の就学前教育は主知主義的な性格が比較的強く、上記の「ごっこ遊び」もトウモロコシの粉が農場から家庭に届くまでのプロセスを実際に再現してみることで、自分たちの家庭生活を支えている社会の仕組みと、それに携わっている人々の仕事を幼児期の子どもたちが具体的な形で理解するための手段としておこなわれている。つまり、子どもの遊びが教授法の一種として活用されているのである。ねらいはあくまでも幼児期の子どもたちによる「社会生活の研究」に置かれている。

p 178.

印象に残った二点目は、デューイが実験学校を教員養成を目的とするものと捉えていなかったという点です。
言われてみればその通りなのですが、大学構想の中での教育学研究の位置づけや、実験学校の大学内での位置づけについては、考えさせられる点が多くありました。現代の日本の附属校を持つ多くの大学では、教員養成と教育学研究の二重の役割を担っている側面もあり、そことの重なりやズレがとても気になりました。

彼が大学の教育学科は教員養成の目的とするものでないとしたことも当然であった。なぜなら、大学の教育学科は初学者を対象に初歩的な教育理論を教授したり、授業方法の基本を訓練したりすることを目的にしているのではないからである。大学は、すでにカレッジや師範学校を卒業して一定の学識と教職経験を有している者、あるいは教育現場の実情にある程度精通している者を対象に、既存の教育理論や実践を批判的に吟味し、「教育学上の発見や実験」というオリジナルな研究に従事することを目的にしているのである。

p. 345.

そのほかにも、詳細な授業実践の内容例や、段階的に変化・発展を遂げていった(試行錯誤していった)実験学校の授業方針の実態などについても詳しく書かれています。
大変勉強になりました。

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