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社会教育の通史を扱った研究です。
私が社会教育に詳しくないことも関連し、理解するのに時間がかかりました。(ページ数は200ページ以下ですが、頭にサッと入ってこず。。)
ですが、気づきも多かったです。
以下、目次です。
詳しくは出版社HPで確認できます。
1部 明治維新から敗戦まで
第1章 社会教育思想の発生と自己教育運動
第2章 社会教育行政の確立
第3章 社会教育施設希求の動き
第4章 自己教育運動の発展
第5章 青年会自主化運動の展開
第6章 抵抗の社会教育
第2部 敗戦から20世紀末まで
第1章 新教育制度の誕生と社会教育法の制定
第2章 平和学習と近代的・民主的主体形成
第3章 高度経済成長の矛盾と自己教育運動
終 章 生涯教育が登場した時代
私自身、社会教育というと、学校教育の対比で捉えてしまうところがあったのですが、本書では「自己教育」という言葉がキーワードになることで、社会教育をより幅広く捉えられるものになっていると思います。
自己教育については以下のように述べられています。
人間は相互教育のように他者とコミュニケーションができる外言と自己に問いかけ答える内言を持ち、外言と内言は相互に影響し合っていて記憶がそれらを支え、自分を振り返り、新たな活動の糧にする。この過程で行われる相互教育を糧にして、自己を成長あるいは変化させようとして自己教育が生まれる。それゆえ自己教育は人間が本来持つ資質の表れなのである。そして、人々が、自己教育の場を確保するために運動史、相互教育のために人々が集まり、条件を改善することを自己教育運動という。
ⅲ-ⅳ
いくつか印象に残ったところを紹介していきます。
明治から戦前の歴史について。
戦前の社会教育の流れについては、以下が端的で分かりやすかったです。
少し長いですが、引用。
社会教育の必要性は、学校制度が未整備の時期にすでに福沢諭吉や植木枝盛らによって自覚されていた。それは人間形成が実社会において最終的に行われるという認識に基づいていた。この認識は、学校教育が確立された時期でも片山潜や安部磯雄、さらには20世紀に入って大山郁夫、土田杏村、青年団自主化運動、自由大学運動など、さらにはファッシズム期の抵抗運動に受け継がれていった。これらでは、社会教育は人間の自己形成―自己教育の問題として学校教育には代えられない実社会における教育の必要から自覚されたのである。
p.91
この自覚に基づいて、実生活と結びついた教育の方法が自覚された。それは、演説、討論、話し合い、サークル、読書会、生活記録の中で行われ、現在の社会教育の機会と方法の原型を作った。こうした教育の機会と方法は、はじめから意識的に教育の領域として行われたわけではなく、しばしば社会運動の中で、その主体の形成のために行われた。それは、天皇制は民衆が政治の主体、教育の主体になる道を閉ざしてきたから、彼らが創造的な権利主体になるためには、天皇制政府の政策を批判したり、抵抗することによってしか行うことができなかったことに起因している。自己教育の面から見れば、そのような運動の中で運動の戦術に改称されない、すなわち知的関心を育て、自己認識と社会との関わりを批判的に考えるための教育の機会と方法の必要が自覚されたと言える。
自己教育運動を作った教育の機会には次のようなものがあった。青年団自主化運動のような社会教育政策の下にあった団体の変革、少年団のような新たな社会教育団体を作り、自由大学、労働学校、農民学校などの学校形態を持った系統的な学習機会が作られ、セツルメント、青年団自主化運動だけでなく自由大学、労働学校なども地域を拠点として作られた地域教育運動の側面を持った。
明治初期において、大人との教育と子どもの教育が両輪のように始められたことも感じられました。
明治初期について、「1868(明治元)年に日本は幕藩体制から決別し、天皇制のもとで近代国家の歩みを開始した。そのときの教育政策は、大人に対する教育と学校制度の確立の二面からなっていた。そして子どもの教育より大人に対する教育が先に生まれた。新しい国家体制の確立にあたって、子どもより大人の思想改革にまず手が付けられた。なぜなら、今いる大人が国を作らねばならないからである。」(p.4.)という記述が印象的でした。
また、自由民権運動の際に、政治運動が生まれる中に、学習結社があるという点は、刺激を受けました。例えば「この運動を支えたのは学習結社であった。この学習結社は、国民主権を担う主体の形成を目指す自己教育組織であるとともに、政治結社でもあった。国民が政治主体であろうとするとき、自己教育を伴うことを意味していた。」(p.6.など)という言葉、印象的でした。
実際、この後も出てくるのですが、社会運動における学習の場の重要性を感じさせられます。
また、戦前の社会教育の各所で、「上から」人々の思想を統制する意味で社会教育を必要と考える人たちと、「下から」民衆の自由を求めるために社会教育を必要と考える人たちの、対立や葛藤が見られるようにも思いました(もちろん、二項対立には出来ない複雑さを含みつつ)。
第一次世界大戦後に、後者の一般利用制限が本格的に緩和され始める。その背景には民衆の動きがある。大正デモクラシーの思潮と運動である。都市民衆騒擾などのときに暴動(焼き討ち)を伴う野外での運動から普通選挙権獲得を目指す政治的権利拡大や生活・社会の改造を求める言論活動・文化運動が盛んになる。民衆勢力の政治的・社会的進出は集合・集会形態をも伴った。支配層は男子普通選挙実現で、公民教育による公民養成の必要性を痛感し、しだいに小学校をはじめとする学校校舎が、社会教育にも使われることになる。
p.30
また、各所で出てくる「青年会」「青年団」が重要であるということはよくわかります。もう少しこの点について、深めてみたいなと思います。まだリアリティを持てておらず。他の文献で勉強する必要がありそうです。
1930年代入る中で、正面からの政府批判は行えない中で、「農村の現実を描くことを読者に要請した」「農村雑記」(『信濃毎日新聞』に設定された欄)の例なども印象に残りました。
すなわち、「農村雑記」は、「実生活の認識を教え、物のあり方を生き方を教える。更に又我々をして今日の生きた現実の中に矛盾するものを見出し、それを究明し高めて行く所に農村雑記の魅力と生命がある」のであった。したがって、これを身近な記録に留まらせることなく、生活の問題と社会との関連の中でとらえる認識の学習の生き方―生活指導の場としようとしたのである。それによって、ファッシズムへの抵抗を生活から築く自己教育運動―社会教育としての性格を見出せる。
pp.88-89
戦後史について
やはり、サークル活動や学習会が様々な運動の基軸になっていることを感じました。
また、公民館の設立当初の考え方が、戦前の考えを引き継いでおり、必ずしも民主化の産物とは言えない点、その上で、「公民館が、「民主主義的な訓練の場」となるように、社会教育の地方分権化の機能が付加された」(p.112.) 点も興味深かったです。
特に面白いなと思ったのは、公民館が地域の総合的な役割を担っていた点についてです。この変遷をどう捉えるのか。興味深いです。
ところで、創設初期の実際の多くの公民館は、公民教育や新憲法普及といった役割を果たすだけでなく、むしろ、「町村振興の中心機関」として総合的な機関の性格を濃厚に持っていた。農業改善などの産業振興、配線後窮乏する生活の安定・向上、文化・教養などの性格が見られ、「村づくり」の総合センターであった。文部省社会教育局長と厚生省社会局長が各地方局長宛てに1946年12月に出した「公民館経営と生活保護法施行の保護施設との関連について」では、生活扶助、医療、助産、生業扶助、葬祭扶助などの保護事業、託児、授産などの援護も公民館で行い、「公民館運営委員と民生委員とは協力して社会事業と社会教育との緊密な関連を図るよう配慮する」よう求めている。公民館はときに「万能公民館」「よろず屋」と呼ばれるほど地域の課題に関わる多様な事業に取り組んだ。 この時期の公民館の総合性には、社会福祉や産業振興などと社会教育を結ぶ側面と、徴税や施策の広報・啓発など一般行政に従属して補助機関化する側面とがあった。しだいに、戦後の諸改革の法整備が進み、行政の組織機構が整えられる中で、公民館の雑多な多機能性・総合性が、その可能性を十分模索されることなく失われていくケースが生じた。
p.114
戦後史の論争点の一つが、社会教育の法制のあり方にあることは感じることが出来ました。
政府・行政からの干渉の許容度、関係者の自主性や専門性の判断基準、財政的な支援の有無なども含み、揺れ動いているのが分かります。
以下、最初の社会教育法制定の時の話です。ここから大きな揺れが何度も起こるようです。
社会教育法制定は、1947年3月の学校教育法制定から2年余遅れた。しかし社会教育行政に法的根拠を与えた点でも法制化は画期的であった。主な特徴は、社会教育の法的定義・領域画定、行政による権力的な統制の禁止と「環境醸成」を責務する助成行政、具体的方法としての施設主義、社会教育行政の中核としての市町村主義である。
p.116
生活綴り方や生活記録の実践は。社会教育史に大変豊富にあることを改めて実感しました。むしろ、社会教育史こそが本流であるようにも感じました。
戦前にも新聞、雑誌などには身の上相談や投稿などによって「書く」ことが広く存在し、生活記録も行われていた。この経験があったから生活記録は、大人や青年の生活綴り方として広く受け入れられていき、1955年には日本生活記録研究会が結成された。各地の青年団、婦人会、青年学級、婦人学級などで生活記録文集が作られた。
p.131
青年団の位置づけの変化、その影響力の低下が起こるプロセスも興味深かったです。ここら辺は、学校教育と社会教育が交差していくのを感じます。
他方で、地域の青年団はその影響力を弱めた。その理由は、高等学校進学率が90%、大学進学率が30%を超える中で、学校が若者の主にいる居場所となったからである。そのため、1970年前後に彼らの居場所であった大学や高校を改革しようとする学生、高校生による政治的運動、いわゆる「大学紛争」「高校紛争」と呼ばれる運動がおこった。また、地域から都市へあるいは職場に移住してくる若者を想定した青年教育は、彼らの次の世代が、すなわち年生まれの若者が中心になることによって、対応できなくなった。また、地域で文庫や青年会館の運営が青年団から、公の図書館や公民館に代わられたため、青年の地域での出番が少なくなり、青年の地域への関わりが減っていったこともあるであろう。
p.156
その他、公害教育や平和教育、子ども会活動などの説明にも刺激を受けました。
まだ未消化なところも多くありますが、
参考文献などを導き手にして勉強をしていきたいなと思いました。