読書メモ

【本】呉永鎬(2019)『朝鮮学校の教育史-脱植民地化への闘争と創造-』明石書店.

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これまで、つまみ読みしかできてなかったこともあり、やっと通読できてよかったです。得るものが多かったです。

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目次は以下の通りです。

序章 闘争と創造の朝鮮学校史
第1章 誕生と破壊
第2章 本国教育の移植
第3章 矛盾の顕現
第4章 教科書の創造
第5章 生まれ出る言葉
第6章 朝鮮学校の生活綴方
第7章 朝鮮への誇り
第8章 明滅する在日朝鮮人史
第9章 公教育の境界線
第10章 政治問題としての法的地位
終章 朝鮮学校の教育史が問いかけるもの

本書では、朝鮮学校史に関する先行研究が、政治的な対立や対抗の場として見る傾向が強いことを指摘しています。

先行研究に対し共通に指摘出来る欠点は、冷戦構造のイデオロギー対立が直接的に具現化する場としての朝鮮学校、あるいは日本政府による弾圧の標的としての朝鮮学校という、朝鮮学校に付随する特異で「非日常」的な事象とその性質に注目するあまり、朝鮮学校で行われている教育それ自体への意識を強く保持できなかったことにある。

pp.17-18.

朝鮮学校の教育史をこうした「「政策と運動の対抗」-同化教育の継続」の構図を強調することによってのみ論じてしまうと、それらとは相対的な自律性をもつ在日朝鮮人側の動きが見えにくくなってしまう。被支配者側の視点に立ち、朝鮮学校の教育そのものを朝鮮学校史叙述に位置づけた時、そこには「同化教育とそれへの対抗」だけでは捉えきれない朝鮮学校史像が、必然的に立ち上がってくることだろう。

P.18.

そのうえで、教える側と学ぶ側のやりとりや教育の実態を叙述することを本書は目指しています。結果として、日本各地の朝鮮学校の膨大な史料をもとに、教育実践の様子を叙述していくことになります。

本書では、教える側と学ぶ側のやりとりと、そのことをとおしたペタゴジーの変容の繰り返しの軌跡の中に、朝鮮学校の教育の特徴を見出し、それらを編み上げることによって朝鮮学校の教育史を叙述する。朝鮮学校における様々な教育的工夫(あるいは失敗)の集積を描き出すことは、先に示したような脱植民地化のための教育の具体像を描くことに直結するものであり、両者は不即不離の関係にあると言える。

P.26.

本書を読んでいて、やはり一番衝撃的なのは、「4.24教育闘争(あるいは阪神教育闘争)」に至る流れでした。情報としては知っていても、何度読んでも深く考えさせられます。当時の状況は本当に大変なものだったのだろうなと。

1947年4月、文部省は地方教育行政に対し通達を発し、在日朝鮮人の教育に対する立場を表明している。ここで文部省は、日本に在留する朝鮮人は日本の法令に従わなければならないため、朝鮮人は学齢期朝鮮人児童を日本の義務教育諸学校へ就学させる義務を負い、また日本人児童と異なる「不利益な取り扱い」をしてはならないとした。ただし、「就学義務を強制することの困難な事情が一方にあり得るから実情を考慮して適切に措置されたい」とし、朝鮮人の実情への配慮を求めた。さらに、朝鮮人が設立した教育施設の許可に関しても、私立学校および各種学校として許可して「差支えない」と、柔軟な姿勢を見せた。・・・冷戦が本格化する中で、文部省の態度は一変する。48年1月24日、文部省は通達「朝鮮人学校の取り扱いについて」(1.24通達)を発する。・・・ この通達に基づき、3月から4月にかけて府県軍政部の指令を受けた各府県教育当局は朝鮮人児童生徒の公立学校への転校指示、後者の明け渡し、学校教育法に基づく学校閉鎖命令等を発した。こうした措置に対する在日朝鮮人による大規模な抗議活動は、特に阪神地域において激化し、4月24日深夜、占領軍兵庫軍政部によって占領期唯一の非常事態宣言が発令される事態となった。また4月26日、大坂では抗議活動に参加していた金太一少年(16歳)が警官の発砲によって死亡した。在日朝鮮人による朝鮮学校を守るための闘いは、4.24教育闘争(あるいは阪神教育闘争)として記憶されている。

pp.55-56.

ただ、このような朝鮮学校をめぐる差別的な状況は、この時だけの話ではなく、例えば、第10章の朝鮮学校と三重県側との交渉の際に「『教育の論理』が不在だった」(p.359.)と書かれるように、本書の各所に見られます。

本書では、「朝鮮学校の教育史は、「教育における植民地主義は戦後において本当に克服されたのか」という問いを投げ掛けてくれる。」(p.372.)と述べられています。

この言葉に象徴されるように、本書で語られる朝鮮学校の歴史は、戦後民主主義教育の理念や、教育基本法や日本国憲法の理念に基づく教育政策のあり方自体の矛盾や暴力性を顕在化させます。

同時に、そのような状況の中でも、朝鮮学校関係者は、いくつかの方法で教育的な営みを継続させていきます。本書はそこの営みに焦点を当てているとも言えます。各々詳細に語られていますが、以下要点のみ。

在日朝鮮人らは朝鮮学校が閉鎖されたあとも、次世代を朝鮮人に育てるための教育の営みを止めることはなかった。朝鮮学校は、大きく三つの形態へと様変わりしながら、その命脈を保った。第一の形態は、学校閉鎖措置が取られたがそれに応じず、朝鮮学校の営みを継続した無許可の学校である。・・・在日朝鮮人の間では肯定的なニュアンスを込め、自主学校と呼ばれた。・・・第二の形態は、公立学校あるいはその分校として運営された朝鮮学校である。・・・第三の形態は、民族学級である。・・・民族学級にも様々なタイプがあり、国語や社会等の特定の授業時間のみ子どもたちを抽出して朝鮮語等の授業を行う抽出型の学級や、放課後に行われる放課後学級、さらに公立学校内ではあるが、朝鮮人のみによって編成された学級を作り、終日その単位で授業を行うタイプもあった。

pp.69-71.

また、50~60年代の流れを見ていると、教員養成体系の確立や教員研修機会のあり方が、質保証や標準化を進める上で重要な機能を果たしていると感じました。総連との関係で緊張感が漂う場面もあるわけですが、この時期が朝鮮学校の基盤形成期とされるゆえんなのだと感じました。

1950年代においては教育経験や学歴、また朝鮮語能力や朝鮮史に関する知識、共和国および総連に関する理解もバラバラであった朝鮮学校の教員集団が、教員養成体系が確立し始めることも相俟って、1960年代中頃には、次第にその最大公約数を共有することになっていった。朝鮮学校教員として求められるペタゴジックな素養と政治的・思想的素養の両者の程度の最低ラインが底上げされ、同時にその標準化が進んだと言えるだろう。

p.99.

特に関心を持ったところを数点メモ。
本書では、朝鮮学校の教師や生徒たちの葛藤や、そこでの解決策の創造を図るプロセスが、何度も形や事例を代えて論じられていたように思います。教材を体系化しようとしたり、よりよい授業や教育のあり方を目指そうとするからこそ、一つ一つの葛藤とぶつかっていくことになるのだなと。

たとえば、母国の翻訳教科書を使用していた段階から、在日朝鮮人用の教科書を生み出していく過程などがその一例なのだと思われます。母国のことは学びたいが、子ども達が生きていく可能性が高い日本社会との接続を図ってほしい。そういう二つの想いの間で創造的な解決が目指されます。

保護者たちの学校への要望は多岐にわたるが、その根底には、様々な制約の中で、朝鮮半島(故郷あるいは祖国)に行くか、引き続き日本で生活していくか、確定できない在日朝鮮人の現実がある。帰国への道が開かれていない子の時点においては、特に日本の学校や社会に接続していくうえでの支障のない教育を行ってくれという要望が目立つ。保護者達の子ども達を「立派な朝鮮人に育てたい」」という想いと、日本でも充分に生活していけるような能力を身に付けてほしいという想いは、矛盾することなく並行していたと言える。

p.130.

ここで「祖国にいる「私たち」と、日本にいる「私たち」を明確に見分けられるようにしてあげなければならない」とされていることに留意したい。朝鮮学校の教科書の読み手である在日朝鮮人の子ども達は、日本で暮らしており、祖国にはいない。だが祖国の人々は他者としての「かれら」ではなく、同一集団内への帰属を指す「私たち」という言葉で表現される。在日朝鮮人である「私たち」は、日本にいる「私たち」でもあり、同時に祖国にいる「私たち」でもある。すなわち、一方では日本にいる在日朝鮮人としての「私たち」を、祖国にいる「私たち」と区別しながら、同時に「私たち」は祖国の一員、共和国の公民であるということを、子どもたちに認識させなければならなかったのである。一体、「私たち」とは誰なのか。朝鮮学校の教科書は、この問いを避けては通れない。そのため、この点に関し、子どもたちに混乱を来さないようなペタゴジー上の配慮が求められたのであった。

p.162.

上の二つ目の引用に書かれた「「祖国にいる「私たち」と、日本にいる「私たち」を明確に見分けられるようにしてあげなければならない」というのは、まさにそういうことなのだと思われます。

また、朝鮮学校における母国が朝鮮民主主義人民共和国であるのに対し、韓国の扱いについて、複雑な想いを抱える学校関係者の様子も見えてきます。

いわずもがな韓国政府が敷いた行政区分を認めないという立場は、分断に基づく政治的対立の諸産である。しかし在日朝鮮人の故郷の大部分が南朝鮮地域にあり、故郷の人々との手紙のやり取りのためには正確な行政区分の理解が必要であるため、それらを教えるという言明は、素朴な理由であるが、在日朝鮮人の実情を加味することによって、教科書記述における冷戦・分断イデオロギーが一定程度緩和されうる可能性を示しているとも言える。たとえ国際的な冷戦構造の下、両国家が政治的に対立しているとはいえ、多くの在日一世の朝鮮人の故郷は南朝鮮地域であり、それを扱わないことは、心情的にも憚られたことだろう。故郷を南朝鮮地域におき、祖国を北朝鮮地域に建国された共和国であるとする在日朝鮮人の複雑さが、教科書にも現出しているのである。

p.171.

同じく、葛藤が色濃く描かれていたのは、朝鮮学校における朝鮮語指導の教育方針に関してでした。
日本社会に位置する朝鮮学校という空間の中で、在日朝鮮語としての朝鮮語指導が模索されていくプロセスが見えてきます。生徒にとって、母国語は朝鮮語だけれども、実質的な母語は日本語。そういう環境の中で、生徒と教師が対話しながら、朝鮮語を単に強制することなく、より良い朝鮮語指導を模索していく。このプロセスには緊張感があり、実にリアリティが感じられました。

在日朝鮮語は、朝鮮学校という教育空間と関係の中という人為的な条件の下で、意図せぬ形で生まれ出た在日朝鮮人に独特な言語である。それらが生まれること自体を否定しょうがなく、おそらく朝鮮学校の教員たちも、そのどうしようもなさを自覚していたことだろう。
 それは「立派な朝鮮人」が使う「正しい国語」とは言えない、「浄化」すべき対象であった。朝鮮学校では旧植民地宗主国である日本の言語である日本語に影響を受けた「汚れた国語」によってではなく、「正しい国語」を習得・使用することによって、在日朝鮮人の脱植民地化が目指されたためである。「正しい国語」の習得と使用は、実現可能性の高低という問題ではなく、当時の朝鮮学校において、決して譲歩することが許されない原則なのであった。
 多くの在日朝鮮人の第一言語である日本語を排し、「正しい国語」を常用させることが朝鮮学校の国語教育が目指す到達点であり、それに向かって様々な実践が繰り広げられた。しかしそのような実践をいくら繰り返そうとも、純粋な「正しい国語」には到達できず、亜種としての在日朝鮮語が生み出され続けてしまう。1950~60年代における朝鮮学校の教育は、国語をめぐる規範と現実の葛藤を、常に含んでいたのであった。

p.201.

また、朝鮮学校において、生活綴方的教育実践が追究されるプロセスも印象的でした。「ありのままの現実」を自分の言葉で書く、という生活綴方の実践を、生徒は(必ずしも)完全に自由に書きこなせるわけではない朝鮮語で書く。その少し複雑な構図の中で、生徒たちのアイデンティティがむしろ揺すぶられていくのが分かります。

戦後日本社会で隆盛した生活綴方という教育方法が朝鮮学校にとり入れられていったのは、その方法が、朝鮮学校教育の目的である、在日朝鮮人の脱植民地化と共鳴していたためだと考えられる。植民地主義によって人々の認識に刻まれた支配関係を克服することを、人々の次元での脱植民地化と捉えるならば、また独立国家を得たり、あるいはその国語を習得することだけで、達成されるものではない――そのこと自体がとても重要ことであったとしても。もちろん帝国主義批判を声高に叫ぶだけでも達成されないだろう。求められるのは、自身がどういった社会をどのように活きているどのような存在であるかを省察することであり、それは抽象的でない自身の生と向き合うことから始めなければならない。生活綴方の方法は、正にこうした要求と合致していた。なぜ自分は朝鮮語ができないことを嘆くのか、朝鮮人であることを隠そうとしてしまうのは何故か、朝鮮学校はなぜ弾圧され闘わなければならないのか、未だ安心して生活することができない私たちにとっての解放とはいったい何なのか……。都立朝高の生徒たちが生活綴り方的実践をとおして得た気づきや自問は、それ自体が、人々の次元における脱植民地化のありようを示すものと捉えられるのである。

p.225.

また、在日朝鮮人運動史が批判された後の、教師たちの試みにも創造性を感じました。
1961年の通称「8月講義」によって、「在日朝鮮人運動史」講義が徹底的に批判されました。その焦点の一つは「金日成を中心とした抗日武装闘争に端を発する共和国国史と相対的独自に展開する在日朝鮮人運動史理解はありえない」(p.283.)だったとされます。結果として、1960年代の社会科関連教科書では、体系的な在日朝鮮人史の内容は扱われず、その背景に、「8月講義」問題が影響を及ぼしていたのではないかと著者は見ています。(p.287.)
ただ一方で、教師たちは教科書以外の場で様々な実践を展開していた。

朝鮮学校の教員たちは、たとえ教科書に在日朝鮮人史が扱われていなくても、地域の特性に合わせて、在日朝鮮人の歴史を発掘、収集し、それらを教育に活用している。例えば江東区枝川の朝鮮人集落地区の中にある東京朝鮮第二初中級学校でも在日一世を学校に招き、朝鮮人集合住宅の建設から始まった枝川の町の形成、決して楽だとは言えない当時の生活状況、差別体験などを直接聞く場を設けている。60年代中頃の教員たちは、こうした実践の意義を愛国主義教養の文脈から位置づけている。植民地期を生きた人々の軌跡を追い、自身の祖父母、父母世代の人々の証言をとおして在日朝鮮人史を学ぶことは、朝鮮人たちの生活の過酷さ、処遇の不当さを一層現実味のあるものとして感得させるとともに、植民地支配への理解を深めさせたことだろう。

p.290.

最後に、本書の副題にもなる「脱植民地化」のプロセスについて、こうまとめられています。

朝鮮人は植民地支配によって朝鮮民族の歴史と文化、言語を奪われた。また「植民地教育」によって、「朝鮮語や朝鮮歴史や地理、音楽」等、「朝鮮のこともなにもしらない人間」、すなわち朝鮮人ではない日本皇国臣民となってしまった。こうした状況を克服するため、「植民地教育の反対物」としての「民族教育」を行い、「日帝時期に奪われた私たちの言語と文学、私たちの国の歴史と文化を取り戻し」、子ども達を「立派な朝鮮人」に育て上げる必要がある。このような意味づけのもと、朝鮮学校では、朝鮮民族ないし、共和国の国民としての共通の文化と記憶を教え、ナショナル・アイデンティティを育む国民教育が行われていた。それによって子どもたちに自身を「共和国の息子、娘である」、「立派な朝鮮人である」と認識させることが、解放後にも残る植民地支配の影響を払しょくすること、朝鮮学校が目指した脱植民地化であった。

p.366.

本書を読んでいると、この脱植民地化のプロセスが、様々な要因ゆえに一筋縄ではいかなかったこと、それを生徒・教師が一緒に乗り来ようとしていることが伝わってきました。

あと、個人的に印象深かったのは、朝鮮学校で愛国教育が行われる点への説明についてでした。以下の記述のあるように「朝鮮学校を一歩外に出た日本社会には、それらを育むための資源(情報や関係)が圧倒的に不足していた」という現状を踏まえて、改めて愛国教育を捉える必要があるのだなと再認識したりもしました。日本社会と学校空間とのずれを感じながら、関係者が学校のあり方を必死に模索していることが読み取れるような気がします。

朝鮮学校には、日本で生まれ育った在日朝鮮人の子どもたちに、自分たちが朝鮮民主主義人民共和国の海外公民であること、朝鮮民族であること、朝鮮人であることを当然なことと思うための、あるいはそのことに誇りを持たせるための様々な仕掛けが施されている。愛国主義は、「学校の教授教養のすべての過程をとおして」、また「自分の故郷と学校、家庭、周りの人に対する・・・愛情を基礎にして、祖国愛にまで体系的に発展させる」べきものとされていた。それは、朝鮮学校を一歩外に出た日本社会には、それらを育むための資源(情報や関係)が圧倒的に不足していたためである。

P.241.

自分たちの民族教育を行いたいという試みを、日本社会・政府の暴力的な対応によって様々に妨害されながらも、創造的解決を図っていく。そのプロセスが教育実践レベルでよくわかる本だったように思います。

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