以下、過去に読んだ感想メモを掘り起こして記録しています。
本書は、読みやすい内容ばかりではないですが、様々な問題提起をしています。 例えば、本書は学習論が先行する教育学への批判の書とも読めます。
なぜ「教育論」より「学習論」の議論をする流れが批判されうるかというと、学習論の議論だけだと、何のために教育をすべきかという規範的な視点が薄れるがちだから。
このビースタの主張の背後には、PISAテストをはじめとして、客観的なエビデンス(証拠)に基づく教育政策が、規範的な議論を避けていることを強烈に批判したいという意図があります。エビデンスに基づく前に、何のための教育なのかを問う必要があると。
実際、学校教育を民主主義的教育だと捉えるビースタにとって、何らかの目標を固定化して測定しようとする発想は受け入れがたい。
なぜならば、民主的な社会とは、所与の目的がある社会ではなく、絶え間なく議論や熟議をするための問題がある社会だからです。
本来は異なる考え方から見れば、同じ現象でも意味が変わってくるにも関わらず、エビデンスの議論はそれを矮小化する。
ビースタは、そのような経緯の中で「中断の教育学」という考え方を提起します。様々な考え方が過去から現在へと提唱される中で、それは本当かを立ち止まって考えること、そういうイメージかなと思います。私として、以下の文が気に入っています。目に見えた成果を求めること自体を立ち止まらせてくれる気がします。
「中断の教育学は、『強い』教育学ではない。つまりそれはどんな意味においてもその『成果』を保証しうる教育学ではないのだ。それはむしろ、主体化の問いに向き合っている教育の基本的な弱さを承認する教育学である。教育のこの存在論的な弱さは、まさに同時にその実存的な強さでもある。なぜなら、独自性が世界に表れるための空間が開くかもしれないのは、人間の主体化がある方法で教育的に生み出され得るという理念を我々が諦めた時だけだからである。これが中断の教育学において賭けられているものなのだ。」
(p134.)
本書の後半部では、ビースタは民主主義的教育のあり方について、二つの考えがあることと整理しています。
一つは、民主主義的な空間の外側にいる人を内側に連れてくるというモデル。いわば同化を促すようなイメージが付きまとうのですが、ビースタはこれを「植民地的拡張」と述べ、否定的に捉えています。
もう一つの考え方は、民主主義とは、外側からの他者からの要求によって生じるものであり、外側の者が平等を求めた際に生じる秩序の再定義だと捉える考え方です。
ビースタは後者を支持する。この考えの先には、一定の秩序のあるコミュニティが、その秩序とは異なる他者と向き合う瞬間にこそ民主主義が生まれるという考え方があり、同時に、そういう場面・時の実践においてしか、民主主義の学習はできないという、とてもラディカルというか、攻めた姿勢が感じられます。
これは、前に読んだ『民主主義を学習する』でもそうでしたが、民主主義的な関係を実践する場(つまり、異質な他者と向き合い、皆で秩序を再定義しようとする場)においてしか、民主主義を学べないというビースタの主張が一貫している気がします。
そして、言ってみれば、社会生活そのものが、絶え間ない学習の場なのだという、生涯教育的な視点を強く感じます(し惹かれます)。
本書の一連の主張をビースタがするのは、民主主義社会における教育とは、単に私的な利害の集合体と言う発想で決めるのではなく、その社会にとって「良い教育とは何か」という共通善の問題を熟議していく必要性を提起する姿勢が一貫しているからだと思います。それがずばり本のタイトルとして掲げられている感じです。
私たちの周りでも、「教育はどうある『べき』か?」という、「べき論」が敬遠されがちな風潮がある気がするのですが、その規範的な「べき論」を問うことこそが、民主主義社会のあり方そのものであり、そのプロセスが生じてこそ民主的と言えるのだというビースタの考え方には、(民主主義と向き合う社会科教育の文脈では特にですが、)色々と考えさせられるものがありました。