読書メモ

山本昭宏(2015)『核と日本人:ヒロシマ・ゴジラ・フクシマ』中公新書.

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アニメ、マンガ、映画等々と戦後社会の接点を大いに感じる作品でした。戦後日本の人々は、核エネルギーの破壊力や放射能の影響を恐れながら、同時にそれを愉しんできたという「二面的な認識」(p.249.)が描かれている。驚いたのは、戦後直後のころから、核の平和利用の議論が多くみられること。湯川秀樹のノーベル賞の話も含め、日本の科学技術に希望を見出していく様子は分かるが、占領下の検閲の関係がどうだったのか気になる部分はある。ゴジラの誕生、その後の敵の登場、様々な特撮映画に出ている怪獣たちが、各時代の世相、特に社会問題を意識して作られてきたことが分かる内容となっている。1960年代の特撮の中で原子力発電所を舞台に選ぶ作品が沢山あったことも紹介されている。戦争体験としての核・原子力のイメージが、徐々に1970年の公害問題の文脈の中で読み替えられつつ理解されていった過程や、原子力施設などでの核の平和利用への期待が徐々に失われていくプロセスも読み取れる。もう一点驚いたのは、1970年代末~80年代のマス・メディアが原発に対して批判的な報道がほとんどなかったという点(p.157.)。同時期に核の「平和利用」という社会全体の問題イメージが、1960年代の原発稼働の中で「地域の問題」(p.159.)や「専門家の問題」」(p.253.)と捉えられていくプロセスも考えさせられる。1970年代以降の原発推進への反対運動もありつつも、世論調査では「現状維持」を求める声も多かった。それに対して、東日本大震災や原発震災以後、原発に対する語りの枠組みが、地域と専門家集団の問題から日本の問題へと広げるようになった(p.253.)と指摘している。社会運動のあり方を含め、これらの展開に私たちはどう可能性を見出していくべきかという点は重要な論点のように感じた。話は少しずれるが「戦後民主主義教育を一身に受けて育った子どもたちが、戦記マンガに熱狂したのは、奇妙と言えば奇妙である」(p.87.)という話をどう捉えるべきか。

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