読書メモ

江利川 春雄(2022)『英語教育論争史』講談社.

  • このエントリーをはてなブックマークに追加


「たいへんな労力をかけた割には、使えるまでにはならない。それが英語だ」(p.3.)という話が、戦前から連綿と形を変えて論争の火種になってきたことがよくわかる本だった。英語教育の価値を論じる際に、実用面を強調する立場と、教養面を強調する立場があり、それを超える議論として教育目的の議論が定期的に論点として見えてくる。ただ、結局のところ、、「論争でけじめをつけないまま、そのうち議論の熱が冷めていく」(p.267.)形となり、似たような議論が繰り返され続ける、という話は印象に残った。英語教育史の価値がここにあるのだとも思えるが、学者、産業界経済界、受験産業、その他社会的要請等々の中で、議論の論理的な構造というよりも、それを取り巻くポリティクス自体が複雑化していることが見えてくるように思えた。
「使えるレベルに達するには血の滲むような努力が必要だと分かると、英語熱は塩をかけた青菜のように萎えてしまうのである」(p.28)という話は、現代にも相当程度通じる話なのだろう。授業で会話やコミュニケーションを重視したからと言って、授業の中で「実生活で使えるレベル」には通常はたどり着けない。とすると、どれだけ自主学習を促す動機付けとして授業が機能するかという話になるのか、全く違うところに価値を見出すのか、など色々と考えさせられた。
多様な経歴、進路希望、学力の生徒に対して、英語のクラス・コースを振り分けるかどうかという議論も、英語教育の目的、内容、方法に直結する大きな論点のように思えた。露骨な実用主義の立場をとらずとも、習熟度別編成のような形が取り入れられているような学校空間も少なからず存在することをどう捉えるか。その他の論点(例:受験との関係等)も含め、英語ゆえに顕在化しやすい議論もある反面、本来は同じような論点が各教科にも潜り込んでいることを再認識させてくれる本のように感じた。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

English

コメントを残す

*

CAPTCHA