『思いがけず利他』を読了。利他とは何かを考察した本。本書の論の軸が、ジャックアタリが述べるような「合理的利他」論への批判にあると理解した。本書では、利他的行為がともすると、相手側の強迫観念になったり、利他的行為をした本人の支配欲にも繋がりうると指摘する。
そのような議論を超えるために、落語やヒンディー語や親鸞の話を経由する過程が面白かった。「人間の小ささ」、人間の不完全性を大切にするという立川談志氏の落語が見たくなる本だった。親鸞の絶対他力については、それは、ゴロゴロして、全て仏に頼ればよいということではない。自力の限りつくして、限界にぶつかり、ふいに現れるものであり、求めるものではない。
印象に残ったのは、行為が利他的かを決めるのは行為者やその場ではないという点だった。「意味や意義はあらかじめ存在するのではなく、全て事後的なもの」(p.96.)。利他は与えた時に発生するのではなく、受け取られた時にこそ発生する。つまり、利他は偶然によって生まれるし、この偶然性への認識が、自己の能力への過信をいさめ、自己責任論への牽制になる。そのように私は理解した。私たちの今の意味は、未来から贈与される。それゆえに、今を精一杯生きることが重要ともあり、この「精一杯生きる」とは何かと考えさせられた。いずれにしても、自分の限界や無力さを直視し、謙虚さを持つことが「精一杯生きる」の条件にはなりそう。
中盤でヒンディー語の分析がなされる過程は、中動態の議論と密接な関係があり、目的主義的な思考(意思に基づく行為を自然なものだと捉える発想)に牽制球を投げる議論のように感じた。
行為の意味や意義はその場で決まらない、という話は様々な「評価」をめぐる話とも繋がりそうだなと読みながら何度も感じる瞬間があった。その話はまたどこかで。