読書メモ

小森陽一(2001)『ポストコロニアル』岩波書店.

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『ポストコロニアル』を読了。刺激的な本だった。

戦前、戦後の日本を植民地主義の視点から考察した本。本書の最重概念の一つが「自己植民地化」だと私は理解した。自国の領土確保のために自国の制度や文化、国民の発想を、欧米という他者になかば強制された論理によって、しかし自発性を装いながら、植民地化する状況を指す(p.8.)。そのような自己植民地化の発想は、1860~70年代の日本のパワーエリートに内面化されており、いちはやい例として西周が挙げられている。

自国が植民地化されるかもしれないという危機感を隠し、自発的意志かのように欧米列強を模倣し、自己植民地化している自分を隠蔽・忘却する。そして、自らが「文明」でありうる証を求め、他に「野蛮」を発見し、その土地を奪い領有をし続けようとすることになる。これらは「日本型植民地主義的意識」と呼ばれていた。

3章は「敗戦後の植民地的無意識」について。「大日本帝国」の脱帝国主義化が、日本国民がほとんど関与せず情報すら入ってこない状況で行われたことが、「日本人の精神構造や自意識に深刻な影響」を与えてしまったとする(p.85.)。また、日本の脱植民地化を、自らの問題として引き受ける思想の契機をつかむことができなかった(p,102)とも指摘されていた。

天皇制の存続、戦争放棄、沖縄の要塞化をセットにすることにより、日本がアメリカ帝国、冷戦構造での要塞として「再植民地化」されていくプロセスが描かれている。独裁主義、共産主義などの「野蛮」を作り続けることで、自己正当化し続ける描写が既視感あるものとして描かれていた。

本書の話を読みながら度々頭によぎったのは、今の私たちが、競争や能力主義を内在化するグローバル資本主義の論理を「自己植民地化」し、他との比較を通して自己正当化していないかという点だった。自己の正当性を主張する際に、他にある「新しい」「優れた」ものを自分に内面化し、それとは異なる「劣ったもの」「野蛮なもの」を作り出し批判し排除する。広義には、(リベラル含め、)私たちもそれを繰り返していないだろうかと。自分の中に潜む植民地主義的意識ないし無意識と向き合うとはどういうことなのかと。考えさせられる本でした。

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