読書メモ

吉見俊哉(2007)『親米と反米:戦後日本の政治的無意識』岩波新書.

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『親米と反米』を読んだ。戦後日本の体制・文化が基本的には親米的なものであったとした上で、「『親米』日本」が歴史的に形成される経緯や、戦後史上での反米意識と親米意識の関係、さらにはアメリカの地位の揺らぎが起こる中での、二項対立の超え方を論じる本だと理解した。

占領の前後との歴史的な関係性が印象に残った。例えば、戦後の占領体制は、「戦時期までの天皇制と占領期の米軍の構造的な連続性」があり、戦争への総動員を支えてきた天皇制との「抱擁」(p.17.)であった。同時に、占領終了後に、占領の記憶自体が忘却され、ナショナルなもの(戦後日本のナショナルな主体)としての語りに変換されていくことが様々に指摘されていた。戦後日本の都市大衆文化は、確実に占領軍と焼け跡の若者たちとの交渉のなかから情勢されてきたのだが、そうした交渉史は、やがて都市とメディアの表層から消えていく、とも述べられていた(p.114.)。

併せて、戦後日本の過程において、アメリカンなまなざしやアメリカンなものを追究することこそ、新しいネーションの実現であるという新しい国民的主体化が起こった、という話(p.206.)も印象に残った。戦後の民主化とは、大衆にとってはしばしば政治的自由である以上に、アメリカ的な豊かさの獲得だった、との指摘と直結しそう。

また、戦前日本の文学者、知識人等々(例:内村鑑三、永井荷風、有島武郎)たちが、アメリカの理想と現実に苦悩している様子も紹介されていた。戦後史における反米意識の基調として、「反基地」の文脈が紹介されていた。1950年代日本の「反米≒民族ナショナリズム」という枠組みも深く関連する。

反米の話に関しては、ベ平連の文脈で紹介される鶴見俊輔の指摘が個人的には印象的。ベ平連の訴えは、大東亜戦争の推進者たちが、そのまま戦後民主主義の中枢を担ってきたいという支配権力の連続性に対する問いかけでもあり、日本の戦後平和、民主主義とは何かの問いかけでもあったとされる。

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