『「社会モデルで考える」ためのレッスン』を読んだ。 障害者差別解消法や、「合理的配慮」、「社会モデル」等についてじわじわと理解を深められるエッセーが並んだ本。個人的にも救いを求め手に取った本でもあり、「『合理的配慮』は『面倒な義務』ではなく、『対話していくための道具』と考えてほしい。」(p.19.)であったり、「『手続き』としての対話が必要だ」(p.72.)という言葉に新しい視点をもらった。
あまたの研修講師も務めている著者の示す事例や発問が面白く、読んでいる側の「合理的配慮」「社会モデル」の理解を揺さぶるものが多く、ジワジワ効いてくる。
印象に残ったのは、日本の教育・メディアのいずれにおいても、障害を個人の問題に還元する常識的な考え方が強く、障害者を「福祉・支援の対象」として描いたり、「頑張っている人、感謝する人」として道徳のネタとして扱った対することの弊害をどうにかしたい(p.211.)、と述べていた点だ。ある意味で、この染みついた(?)マインドのようなものをいかに超えていくかがポイントになりそうな気がしている。
分離教育による弊害も何度も強調されていた。これは単に学校教育だけの話ではなく、隔離主義によって、障害のある人と一緒に過ごした経験のない人が増え、地域からの排除を正当化していく・・・という連鎖や構造に対して批判がなされていると理解した。雇用も含め、近くで出会ったことがないから「無理では?」と思ってしまう、という話も繋がってくる。それゆえ、リアルな障害のある人との対話の機会を持つ、場数を増やす必要があるという指摘。納得と共に自分に足りないと痛感した。
「弱者っぽくない、自己主張をするマイノリティ」をうさんくさく思う「気分」が恒常的にネットに広がっている、という話も指摘されていた。複合差別の話にも言及がなされており、障害の論点だけにとどめない様々な差別問題との連続性、関連性を視野に入れていく必要性も感じさせられる本だった。