『差別はたいてい悪意のない人がする』を読了。構造的な差別は、私達の感覚にとって自然な日常にすぎず、時として差別を認識することは難しい。だからこそ、「私たちはまだ、差別の存在を否定するのではなく、もっと差別を発見しなければならない時代を生きているのだ」(p.41.)と本書はいう。
差別の複雑性や多重性への考察は示唆が多かった。自分が差別を受ける側にもなると同時に、差別する側にもなりうること(p.63.)であったり、構造的差別に囲まれた社会の中では、差別される側の人でさえ、不平等の維持に加担してしまう場合がある(p.11.)ことなど。
特に印象に残ったのは、ステレオタイプ(固定観念)とスティグマの影響の大きさについてだった。人は、固定観念を持つと、その枠組みに合う事例を優先し、それ以外を例外視する。そして、固定観念が本人の認識に影響を与え、結果自体をも左右してしまう。ゴッフマンをいよいよ読まなければと思った。
ユーモアの裏にある危険性から「笑っているのはだれか」「誰が笑っていないのか?」の話を通して、周りが笑う中で笑わないのも抵抗であると再確認できる。「実は、誰にでも、どんな場でも嫌いといえる自由があるわけではない。」の話とも関連し、日常生活のささやかな抵抗のあり方を再考させられる。全体的に事例や例え話が分かりやすい。
今も私が気づかない差別を日常的にしているとすれば、本書でもあったように、自分が「無意識的におこなった行動を省察し、習慣と態度を変えなけれならない」責任が私にある。これは楽ではないが、何度も学び直しながら、自分の認識を問い直しながら生きる強さが必要なのだろうと思えた。