『中動態の世界』を読了。行為の能動性/受動性の区別が本当にできるのかを問い、「中動態」の概念をヒントに、様々な言語や思想を分析し、自由のあり方を論じた本だった。中盤はがっつり言語の話をしているのだが、その中で、「言語は思考の可能性を規定する」(p.111.)ことが実感できる内容となっている。「言語の歴史に注目することが、社会の歴史に注目することでもある」という視点は、私にとって目から鱗だった。
個別で興味深い情報も多い。例えば、多くの言語が能動態と受動態の区別を知らない(p.34.)こと。中動態とは、かつてインド=ヨーロッパ語にあまねく存在した態であること。ギリシア人が意志を示す言語を持っていなかったこと。動詞は言語の中で遅れて生じてきた要素であること。英語の8割の受動態はbyによる行為者の明示を欠いていること等。
様々な考察の後、スピノザの思想へ。「われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現できているとき、われわれは能動的である。」(p.256.)とされる。そのため、私たちが能動的に見えても、「完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない」のであり、逆に一見すると受動的に見える状況でも、その状況を明晰に認識したり、俯瞰して捉える「思惟能力」があれば、受動状態から脱することができる。
私なりに、自由意思とは異なる、中動態的な世界を前提とした場合、行為や結果そのものだけでなく、過程を丁寧に見ない限り、能動・受動の質の違いは、区別・認識できないということだと理解した。
その他、アレントの「自発的一致」の強調に対する著者の見解が印象に残った。純粋な意思や自発性がないとすれば、一人一人が政治的な意見を自立して有していることはありえない。それなら、それをつくり上げ、磨き上げるプロセスこそが重要だとされていた。また、責任概念に関して、意志の概念や行為と能動/受動の振り分けが、「一定の社会的必要性」(p.29.)によって成立しているという話も考えさせられた。