『虐殺のスイッチ』を読了。森映画監督が書いた本。映画「福田村事件」と繋がる問題意識は鮮明に分かる。印象的なのは、善人だから殺さないのではない。悪人だから殺すのではない。これを分ける境界は善悪ではなく、環境さえ変われば人は多くの人を殺す、という指摘。
著者はそれが起こるメカニズムを様々に考察していく。「虐殺は、世界に数多くある」(p.192.)とある通り、数百万規模の人が短期間で虐殺される事件が20世紀以降にこれ程沢山あるのかと再確認させられる。過去の戦争や実験で、最初は殺人や加害に抵抗を持っていた人々が環境に適応してしまうプロセスも書かれている。
一方で印象に残ったのは、ノルウェーでのナチス・ドイツの強制収容所で、ユーゴスラビア人を殺した看守と殺さなかった看守の話。その違いは、収容者と「私的な会話を交わす」(p.126.)かどうかだという。僅かに会話を交わすことの希望をそこに観た気がした。「一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺すのか」。そのキーワードとなっているのが「集団化」や「忖度」など。
日本社会への批判も各所でなされる。その要点は、個が弱く集団への意識が強いがために、加害側に立った記憶が残らない(責任自体が感じにくい)点にあると理解した。「この国は記憶することが本当に苦手だ」「絶望しない。身に沁みない。だから同じ失敗を何度も繰り返す」とも。加害者の声をもっと聴くべきだ、と強調されていた。日本社会は、事件の加害側を叩く・批判する対象として見がち。でも本来は、善と悪の境界線は多面的で、グレーゾーンやグラデーションが多くある、という指摘には考えさせられた。