目次は以下の通りです。
第1章 教育と社会化
第2章 学校の目的と機能
第3章 知識と経験
第4章 善人の道徳と善い世界の道徳
第5章 平等と卓越
第6章 人間とAI
第7章 身の回りの世界とグローバルな世界
学校教育の意義や役割について、言語化しづらいけど大切な視点を、分かりやすく説明してくれている本だと思いました。
高校生に向けて書いている、というちくまプリマ―新書のコンセプトではありますが、私自身もいくつも気付きがありました。
前提として、「第1章 教育と社会化」において、教育の性格について再認識することができる内容となっています。
著者は、教育を、「教育とは、誰かが意図的に、他者の学習を組織化しようとすることである」(p.18.)と定義しています。
その上で、教育が権力性を持つことや、教育と学習の違い(「教育をしても学習が発生しないこともあるし、逆に、教育無しでも学習は発生する」ということ(p.26.))、教育の目的を意識することの意味(p.61.)についても、わかりやすく説明しています。
印象に残った点をメモしておきます。
一点目。
受験のため、として勉強する生徒がいることについての、著者なりの意見が私には共感できました。
教室内に「入試のために勉強している」生徒がいることを許容しつつも、入試対策を教師が目的視していくことの問題点を指摘しています。
子どもたちが、入試のために勉強をするとか、資格試験のために勉強をするといった現象は、私はやむを得ない部分があると思っています。勉強していることの中身を面白いと思ったり、中身が有用だと実感できる子どもたちばかりではないからです。本末転倒した学習になってしまいますが、それでも勉強をすれば、新しいことを身に着けることができます。むしろ深刻な問題は、教える側が、本来の「教育の目的」とはかけ離れた形で、「入試対策のための授業」「資格試験のための授業」に専心してしまうようなことが、そこらじゅうで起きている、ということです。
pp.75-76.
著者は、むしろ、教師の理想と生徒の現実にズレがある方が良い、と述べているのですが、このズレている方が良いという発想は新鮮に感じられ、同時に、腑に落ちる感覚も持ちました。
私は、一つには、教師の理想や理念と生徒の現実的な思惑との間にズレがあればいいのだと思っています。教師は「教育の目的」を見失わないようにしながら、教えていることの意義や面白さを、自分では明確に意識しながら教えるべきだと思うのです。教師自身が、「この内容は面白いし学ぶ意義も大きい」と思って教え方を工夫したりすれば、教師が教えてくれることの中身を「面白い」と思う子どもも、もっと増えるでしょう。ただ、子どもの太刀の多くは、その中身に興味を持たないかもしれません。でも、そうした子どもたちも、「定期試験があるから」「入試があるから」と、勉強はしてくれるでしょう。
p.77.
二点目。
個人的にこの本の一番の肝は「第3章 知識と経験」だと感じました。
学校で教えられていることがなぜ抽象的で時として退屈なのに、それが重要なのかという点がこの章に集約されているように思えます。
端的にいえば、学校で学ぶことは「世界の縮図」としての記号や言語なのであり、それを習得することで、身近な経験や親や友人と接する経験だけでは得られない、広い世界につながる知識を得られる、ということなのかと感じます。
生まれ育った身の回りの世界を超えて、広い世界で生きていくためには、子どもたちは、言葉や記号を通して、この世界がどういうものなのかを理解しないといけない。学校で教えられるのはそうした知なのです。だから、学校知は、いわば記号化された「世界の縮図」だといえるのです。
p.90.
身近な問題を日常的にこなすためには、多くの場合、自分の経験だけで大丈夫かもしれません。しかし、身近で経験できる範囲の外側にある問題や、全く新しい事態にある問題について、考えたり、それに取り組んだりしようとすると、身近なこれまでの自分の経験だけではどうにもなりません。
p.101.
経験は大事だけれども、それはどうしても狭い限定されたものでしかありません。しかも、経験から学ぶという時に、経験の幅を少しずつ広げていくのには結構時間がかかります。少しずつ経験を広げたり、何度も失敗したりするためには、人の人生はあまりにも時間が限られています。むしろ、文字による情報を通して、他の人の成功や失敗はどうだったかとか、他の人の経験がどうなのかということを学ぶのが、手っ取り早く「自分の経験」の狭さを脱する方法です。
p.103.
また、デューイの知識論などにも言及しながら、「『知識か経験か』という二項対立ではなく、そもそも経験の質は、知識があるかないかで異なっている」こと(p.104.)に言及していたのも印象に残りました。
同時に知識が、世界を別の人の視点から考えるために必要だという指摘(pp.138-139.)も共感できました。
いずれも学校で学ぶ知識は十分ではないけれども、新しい一歩を踏み出すためのきっかけや可能性を提供してくれることが強調されています。
学校で学ぶ知識は、社会の出来事を性格に理解するための基礎になります。政治の仕組みを学んでいないと、政治的なニュースは単なる権力者間の争いにしか映りません。地球温暖化の問題が深刻になってきている中で、政策A、B、Cのどれを自分が支持したらよいのか、判断ができません。今ある経済格差を許容するのか、それとも是正を目指す政策を支持するのか、判断ができません。学校で教わる知識は、現在のさまざまな問題を直接扱ったものは多くありませんが、それは仕方がありません。でも、世の中に流れる情報を正確に理解し、自分なりに物事を考えていく上で役に立ちます。学校で教わる知識を基盤としながら、もっと難しい内容の本を読んだり、情報を集めたりしていくことで、複雑な世の中の微妙な問題について、自分なりの判断ができるようになります。
pp.136-137.
こういう著者の語りを読んでいると、学校で全てを実現する必要はないこと、時に学校の教育内容に有用性という意味でじれったさを感じることが合っても、そのじれったさにこそむしろ意味があること、などを実感させてくるように思いました。
学校教育の価値を極端に賛美するでもなく、卑下するでもなく、でも学校って大切だよね、というメッセージ性は強調する。
教育関係者が読んでも再発見が多い本のように感じました。